秋篠宮両殿下御成婚の頃

新聞、雑誌記事

読売新聞 1989年8月26日
英語は母国語並み  ドイツ語、中国語も
スキー本場仕込み  テニス、乗馬も得意
川嶋紀子さんは、昭和四十一年九月十一日、母・和代さんの実家に近い静岡市の済生会病院で生まれた。
当時、一家は東京・新宿区早稲田南町に住んでいたが、四十四年、父・辰彦氏の留学に伴って米・ペンシルバニアへ。
紀子さんはここで幼児期(三歳―六歳)を過ごし、帰国後の四十八年、学習院初等科に入った。
紀子さんの英語が母国語同然といわれるのもそのためで、初等科時代の友人は、「日本語にも外国人のような英語なまりがあった」という。
昭和五十三年、紀子さんが初等科五年の時、父・辰彦氏がIIASA(国際応用システム解析研究所)の主任研究員に迎えられたため、
四十八年に生まれた長男・舟(しゅう)さんも含め一家四人は、オーストリアのウィーンに渡る。
紀子さんは現地のアメリカン・スクールに通って英語に磨きをかける一方、ドイツ語も日常会話に困らない程度にまでなった。
帰国したのは、五十四年九月。紀子さんは学習院女子中等科に一年生の二学期から戻り、二年ぶりに日本での生活を始めた。
紀子さんは十三歳だったが、すでに六年近くを外国で過ごしており、語学をはじめとする国際感覚は、ごく自然に身についたようだ。
中等科時代は、美術部に所属、十数人の仲間と一緒に週二回、静物、風景画などを熱心に描いていた。
スキーもオーストリア仕込みで、三年の時に山形県・蔵王で行われた学校のスキースクールでは、一人だけ上級クラスだったという。
当時の友人は「マイペース型で、周囲の人がいろいろ言っても自分のペースを崩さない。
それでいて気配りも忘れず、みんなを決して不愉快にしない人だった」と話している。
女子高等科に進学すると、様々な学内活動に取り組んだ。
厚生委員会では、ハンセン病患者のための募金活動の中心に。
「私たちがのどの渇きを我慢して、牛乳一本分のお金を出せば、それで何十人もの患者が助かる」と募金活動に奔走した。
山岳同好会にも所属し、テニスや乗馬なども得意で、「スポーツは万能」と評判だった。
友人たちは、そんな紀子さん像を「いつもニコニコしていて怒った顔をみたことがない」
反面、「意志が強く、何事もきちんとしている人」と表現する。
常に前向きの努力家という一面は、高等科の第二外国語に中国語を選択したことにもうかがえる。
英語のほか、ドイツ語もできる紀子さんだが、「何でもやってみたい」と、あえて新しい語学に挑戦したという。
この間、スポーツではテニス、スキーなどを続ける一方、毎朝のジョギングも日課に。
「親しみがあってみんなに優しい」「天真らんまんで、一緒にいると楽しい」
「とにかくいい人で、欠点が見当たらない」。
大学時代の友人も、一様に紀子さんの親しみやすい人柄を語る。
「顔を合わせると、遠くからでも、手を振りながら声をかけてくれる。一度話したことは覚えていて、
『あの話はどうなった?』と心配してくれるなど、思いやりのある温かい人でした」と、高校友人の一人。

ピアノの腕は音大級
紀子さまのピアノの腕前は、意外に知られていない。
「もし、ご本人が望まれれば、音大のピアノ科にも入れた腕前」と保証するのは、十年以上、紀子さまにピアノを教えてきた植村淑子さん(49)
ウィーンにいたときを除き、小学四年から高校卒業まで、紀子さまは、自宅から歩いて十五分ほどの植村さん宅に毎週、通っていた。
グランド・ピアノが二台並んだレッスン場。一回、一時間から一時間半のマンツーマン指導。
紀子さまは学校帰りに制服姿のまま駆け付けたこともあった。
「きれいな音、美しい音を出すことに努力されるとともに、音楽自体を心から楽しまれていた」と、植村さん。
レッスンの合間に、練習中の曲の作曲者や時代の背景について説明したり、紀子さまが外国での生活を話す機会も多かった。レパートリーは幅広い。
古典派から近代まで。その中で、植村さんの印象に一番残っているのはハイドンのソナタ、という。
「うちに来てから一年くらいの初めてのおさらい会で、紀子さまが第三楽章まで暗譜して立派に弾き通したんです。小学生としてはなかなか大変なことですよ」。
このため結婚祝いにも、ハイドンのソナタ全集のCDを選んだ。
紀子さまからはさっそく「宮さまもいろんな曲が好きなので一緒に聞きます」と、お礼の電話があった、という。
天皇陛下のチェロ、皇后さまのピアノ、ハープ、皇太子さまのビオラなど、ご一家は大変な音楽好き。
「婚約発表後の忙しいときも、練習を欠かさなかったと聞いている。
ピアノは紀子さまにとって生活の一部。お忙しくなるでしょうが、今までどおりいろいろ勉強を続けていただければ」と植村さん。
新居にも紀子さまの希望で祖父母がプレゼントした新しいピアノが入った。


酒井美意子『お嬢様倶樂部』丸善メイツ
ロイヤルカップルの美しさは、いわゆる美男美女の魅力よりも品位あることが決定的条件となります。
ミスユニバースのような美しさより、国際的な皇室の社交の場において恥ずかしくない品格の魅力が必要です。
皇太子殿下の弟宮妃として、川嶋紀子さんの容姿をみるとき、礼宮さまはお目が高いという巷の噂にたがわず、
すでに世界の王族や大統領、首相級の前に出ても見劣りしないばかりか敬愛されるものを備えています。
こうした紀子さんの品位は一朝一夕にできあがったものではなく、二十三年間の生育歴を通じて徐々にかたちづくられたものです。
紀子さんのお妃教育第一日目のテレビの画像は、講義室の様子を映し出しました。
机を挾んで、にこやかな表情で耳を傾ける紀子さん。
机の上に開かれたルーズリーフの上には、一本のシャープペンシルかボールペンが置かれています。
その先がどこを向いているか、あなたは気がつかれたでしょうか。
とがったペンの先は紀子さん自身の方へ向けられていました。
一本のペン先であっても、切先を相手の方には向けないという心づかい。
さりげなくノートの上に置かれたそのペンの物語るものは、大きいものです。
それは紀子さんが、ただのお嬢さまではない、ということです。
とってつけたように気取ろうとしてもだめ。
ハサミや包丁を手渡すときは、刃の先を自分の方へ、渡す相手のは柄の方を向けてさし出す。
何でもないことが、キチンと身についてごく自然なかたちで表現できる、これこそお嬢さまの良識をかたちづくるたいせつな要素です。


週刊女性増刊 礼宮さま紀子さま青春華燭
すべては わらぶき屋根の家から始まった
大祖父のふるさと・和歌山県清水町は人口6千人の静かな山村。
紀子さま誕生までの足跡と、新ロイヤル・ファミリーの知られざるプロフィール。
昨年12月、紀子さまが家族とともに訪ねられてから、和歌山県清水町は“紀子さまの里”として、すっかり有名になってしまった。
「せんだっても大阪から団体の観光客がバスをつらねてきましたわ。紀子さんの実家を教えてほしいいう人が、あんまり多いんで、
松浦さんも家のことは教えないでくれというてますわ」
そう地元の人は苦笑いする。
“松浦さん”とは、紀子さまが泊まられたわらぶき屋根の家のご主人・松浦朗さん(55歳)。
紀子さまの大祖父。川嶋庄一郎さんの生家の現在の当主である。
川嶋家はもともと和歌山市内の大庄屋であったが、庄一郎さんは清水町の農家松浦家から婿養子に入った人だったー。
和歌山県有田郡清水町は有田川の上流の深い山々に囲まれた小さな町。人口は6000人。
町の9割が山林で、一昨年、町内に初めてたったひとつの信号機が設置されたときは、珍しさから、
子供たちの見学がしばらく続いたというところーそこが、紀子さまのルーツの地であった。
「(紀子さまは)小学校6年の冬休みに1度、来ましたので、去年は、かなりなつかしがっていました。とても喜んでいましたね…」
紀子さまを迎えた松浦朗さんは農作業の手を休めて、そうつぶやいた。だが、それ以上は語ろうとしなかった。
水田が6反、ほかに、大根、キャベツ、ほうれん草なども栽培。出荷しているのはお茶だけだという。
川嶋辰彦さん(50歳)のまたイトコにあたる朗さんの母・良子さん(74歳)が話してくれたひと言が、松浦さん一家のすべての思いなのかもしれない。
「神さまのように思っていた天皇家は身内のものが嫁ぐなんて夢みたいです。辰彦さんは小さいころと、東大に合格したあとは2~3回いらした程度で、
ふだんは年賀状のやりとりがあるくらいです。
でも、去年みえたときは、裏のお墓をお参りしていただいたり、こんなに遠縁でも親しくしてもらってありがたいことです。
遠い人になってしまうんだなあ、もう会うことはありえんわなあと思うと寂しい。
だからこそ、紀子さんのことは大事に大事に胸の中にしまってあるんです」
紀子さまの大祖父・庄一郎さんは明治3年4月、松浦平吉さんの次男として生まれた。
幼名は力松。寺子屋では1度教わったことは忘れなかったことから“袋耳の力松”と呼ばれていたという。
父の平吉さんは若くして亡くなり、母・かつのさんの手で育てられたが、その秀才ぶりは村誌に、
《天資英明、遠く衆童に勝れしは人口の膾炙する所にして、母に事ふること至って厚く、常に近隣の人をして驚嘆せしめし程なり…》 と、記載されているほどだ。
庄一郎さんは、やがて東京高等師範学校を卒業した明治27年、川嶋志まさんと結婚、川嶋家の婿養子となる。
「農地改革で土地をとられるまでは、それは広い田畑を持つ大地主やったね」
紀の川のほとり、和歌山市府中の古老はかつての川嶋家をそう振り返る。いまは府中地区に「川嶋山」という地名は残っているのがわずかな面影だが、
教育者としての庄一郎さんの足跡は輝かしいものだった。
京都、富山、滋賀の師範学校で教べんをとり、やがて、学習院教授、学習院初等科長、奈良市版学校長をつとめた。
晩年は和歌山に戻って隠居生活。近所の人の話によれば「いつも頭巾をかぶり袴に前だれという水戸黄門のようないでたちで庭の畑を耕していた」という。
紀子さまの祖父・川嶋孝彦さんも和歌山市の出身。旧制一高から東京帝大法学部に進み、旧内務省入りしたエリート官僚であった。
内閣統計局長、参議院人事委員会専門員などを歴任したが、昭和33年、国会図書館専門調査員の仕事についていたとき亡くなった。61歳であったという。
妻の紀子(いとこ)さん(83歳)とは見合い結婚。紀子さんは大正2年から10年間、大阪市長を務めた池上四郎さんが父であり、
9人きょうだいのいちばん末娘(六女)だった。
池上家は元会津藩士というお家柄だという。
孝彦さんとの間には3男2女が誕生。だが長男の啓一さんは1歳で亡くなった。
長女が小菅宮子さん(61歳)、次女が佐藤豊子さん(58歳)、次男が紀子さまの父・辰彦さん、三男が川嶋行彦さんである。
紀子さまの母方の祖父・杉本嘉助さん(75歳)は、脊椎矯正器具の開発で特許を持ち、
昨年まで整体治療院を開いていたが、もともとは旧南満州鉄道の技術者であった。
静岡で家具製造業を営んでいた杉本吉太郎さんは、嘉助さんを木工職人にし、
家業を継いでほしいと考えていたといわれるが、「成績が優秀で、学校の先生のすすめもあり、
地元の工業高校から、横浜工業専門学校(現在の横浜国立大学工学部)へ進んだんですよ」と、嘉助さん宅の近所の人は話す。
紀子さまの祖母・栄子さん(74歳)の父・服部俊太郎さんは旧満鉄の副参事で、嘉助さんの上司であった人であるという。
嘉助さんとの間には2女が誕生。長女が紀子さんの母・和代さん(48歳)だった。
「ご両親が物静かでとても礼儀正しい方なんです。そのせいか和代さんもおとなしい人で、道で会うといつも会釈してくれました」と
小さいころの和代さんを知る地元の人は話す。
また、杉本家は教育熱心な一家としても評判であり、和代さんと、3歳違いの妹・育代さん(45歳)も
ともに静岡の名門女子高・静岡英和女学院で中学・高校を過ごした。
「学校までは4キロほどあったんですが、和代さんは毎日1時間かけて歩いて通学していました。
頑張り屋さんで、成績はトップクラス。英語はなかでも得意だったと思います」静岡英和女学院での同級生はそう話していた。
その後、東京の昭和女子短期大学英文科に学んだが、そのとき知り合ったのが、東大経済学部に在学していた辰彦さんだった。
「道を歩いていて石をけとばしたら女房に当たった」と。ふたりのなれそめを聞く友人に、辰彦さんはこんなふうに話したことがあるという。
ときには和代さんは研究室を訪れ、辰彦さんの論文の整理などのお手伝いもした恋愛時代をへてふたりは昭和39年10月、結婚。
「辰彦さんはまだ大学院の学生で、和代さんが近所の子供たちの家庭教師をして生活を支えていらしたんですよ」そう、和代さんの同級生は振り返る。
辰彦さんは東京都立戸山高校から東大経済学部、東大大学院を経て米国のペンシルバニア大大学院に留学、博士号を得った。
ペンシルバニア大大学院で助教授をつとめたが、昭和48年に帰国、学習院大経済学部の助教授に迎えられ、昭和51年、36歳の若さで教授となった。
専門は「交通経済学」で『道路交通需要の将来予測』『都市化現象と都市分析』などをはじめ、50をこえる著書や論文がある第一人者である。
また、環境問題や人口問題などを研究している国際応用システム分析研究所にも所属し、
昭和52年から54年まではオーストリアのウィーン郊外にある研究所の主任研究員として赴任もした。
学習院大での辰彦さんは「やさしい」と評判の教授。
「授業より大切だと思うことがあれば、そちらを優先してください」そう、ニコニコしながら話し、
「笑っていれればみんな幸せですから、笑っていられるようにみなさんにAを差し上げましょう」ということがしばしば。
辰彦さんの弟・川嶋行彦さんも学習院大経済学部の助教授を経て、東京国際大学商学部教授。
現在は同大のアメリカ校(米国オレゴン州)に赴任しているが、講義は辰彦さん同様、学生たちの評判のマト。
「黒ぶちメガネに髪は坂本竜馬のようなオールバック。いつも風呂敷包みに袴をはいて教室に来ますので、
学内で知らない人はいないという名物教授です」と、東京国際大の卒業生は話す。
出席は「あまり重視しません」ということだが、学生で教室はいつも満員。それだけ人気もあったという。
また、辰彦さんもふたりの姉も、そろって学者に嫁いでいる、
長姉の宮子さんの夫は、東京・小平市にある白梅学園短期大学保育課教授の小菅茂雄さん。
すぐ上の姉・豊子さんは、元専修大学文学部教授の佐藤英一郎さんと結婚、教育学を専門とした佐藤教授だったが、昭和58年9月に亡くなった。
紀子さまの祖母・紀子さんのオイには京都大学掲載が国教授の池上惇さん(57歳)もいて、まさに川嶋家は学者一族である。
昨年7月末、紀子さまはご家族、祖父母の杉本嘉助さん・栄子さん夫妻、親戚一家と旅行なさっている。
お出かけになったのは静岡県伊豆の湯ヶ島の吉奈温泉・東府屋旅館。ここもまた、紀子さまのご親戚だった。
「紀子さんとはそのとき会うのが初めてでした。おじさん(杉本嘉助さん)から“おてんばで活発”と聞いていたんですが、まったく印象は違いました」
そう話すのは東府屋旅館の“若奥さま”城所由佳さん(23歳)。
由佳さんは昨年3月“若主人”の城所達也さん(29歳)と結婚したが、由佳さんの父親が嘉助さんのイトコで、紀子さまとは“またイトコ”にあたる。
「うちには“子宝の湯”という露天風呂があって紀子さんも入られました。お風呂に入るときも
浴衣姿でお辞儀をされたのを覚えていますが、その浴衣姿がとても可愛らしくお似合いでした」と由佳さんはいう。
名物のキジ鍋とシシ鍋を召し上がり、親戚そろっての楽しい一夜を過ごした翌日、達也さんは、直営のキジの飼育園へ紀子さまのご一家を案内された。
現在約6千羽が育てられている。
「私が“ときおり突然変異で白いキジが生まれることがあるんですよ”と説明し、お見せしたところ、
紀子さんと、弟の舟くんが、むずかしい遺伝学の話を始めたんです。やはり、学者一家だなあと、そのとき思いました」と、達也さん。
由佳さんが礼宮さまと紀子さまのご婚約を知ったのは、実家の母親からの「新聞をみてごらん」という電話でだった。
「もうびっくり。でも、ここへいらしたとき紀子さんは“おじいさまを今後ともよろしくお願いします”と、私にごあいさつされたんです。
いま思えば、これからはおじいさんともなかなか会えなくなるので、そんなふうにおっしゃったのではないでしょうか。
私は紀子さんとは同じ年の同じ月の生まれなんです。でも、私よりとても落ち着いていて、笑顔も本当に素敵でした。
でも、私もいわれるんですよ。笑ってるときがいちばんいいって…」
由佳さんはさわやかな笑顔をみせた。どことなく、紀子さまに似た笑顔だった。


学習院初等科教諭  初等科4年、5年時代の主管(担任)上野修示さん
学習院初等科では、3年から4年になるときに編入試験があり、通常6人が編入してきます。
ところが、紀子さんのときは3人しかワクがありませんでした。
この厳しい編入試験にはお父さまが学習院大教授であるとか、一切考慮されません。
だから、学力的にとても優秀だったのです。
そのうえ、今は純日本的な顔立ちですが、当時は彫りが深くて異国人的な雰囲気がありました。
第一印象はとってもかわいいということ。そのかわいくて優秀な子が僕のクラスに来たので、正直、うれしかったですね。
他の先生からもうらやましがれました。
かわいくて優秀というだけではなく、明るくて人あたりがいい。
日本のお嬢さんには、なかなか集団にうちとけない子がいますが、
紀子さんは外国で暮らしていたためか、たったひとりでクラスに入ってきて、すぐにうちとけていました。
かえって、クラスの子たちが紀子さんの奪い合いというか、お友達になりたがっていました。
たいがい途中から入って来る子は初等科になじみにくいところがあって、言葉遣いにしても、指導せねばならないことがずいぶんあります。
でも、紀子さんの場合は、きちんとできていて驚きました。
成績はオール5に近いものでした。どの科目もよくできるなかで、とくに作文が上手でしたね。
作文が上手だということは、頭がいい、本を読んでいる、この2点が挙げられると思います。
人柄がよくあらわれたいい文章を書きました。家族に対する優しさもよく出ていましたね。とくに弟の舟君に対する気持ちが……。
クラブは絵画部に所属。絵は上手でした。また、運動もいい。だからといって目立ちたがり屋ではない。
目立つことはちょっと避ける、というところがありました。人前に立つのは好きではない。
いつも恥ずかしそうな笑い。だから、みんなに好かれたのでしょう。
今、見ていても昔のまま大きくなったように思います。
一番僕が感動したのは、5年の1学期限りで紀子さん一家が海外へ行くことになったとき。
お父さまがわざわざお礼と挨拶に初等科までお見えになったことです。
転勤で非常に忙しい最中、そんなときに時間をさくのは大変なことです。
立派なお父さまであると、よく覚えています。お母さまは、オーストリアでの勉強について相談にみえました。
とにかく、日本語だけは忘れないように、そのためにも「手紙くらいは出しましょう」とお話ししました。もちろん、向こうから手紙が私にも届きました。
とにかく、僕としては、紀子さんが海外に行くことはショックでした。
優秀でかわいい子でもあるし、クラスにとっても明るさが消えるというか、これからの活躍を期待していましたからね。
多くの友人たちもガッカリしていたようです。本人が一番サッパリしていましたね。
今度のご結婚について、いまにして思うと、紀子さんには生まれながらにしてそういう力をかねそなえていたのではないか、
それを見抜いた礼宮さまは偉いと思います。
礼宮さまはとても気さくな方で、紀子さんのこともカバーされ、庶民の気持ちもおわかりになると思います。
紀子さんも庶民の心を忘れないでほしい。たぶん、忘れないと思います。 
教員の一番の喜びは、教え子が幸せになること。紀子さんのことは最高にうれしい。
私は定年まで、まだ10年あります。
おふたりのお子さんが入学される日を楽しみにしています。


週刊現代1989年9月30日号 
恩師・久保田瑛子学習院女子高等科教諭が明かす 私の教え子・川嶋紀子さんの「青春日記」
紀子さんとの最初の出会いは高等科1年の教室でございました。
話のひとつひとつにコックリとうなずかれて、微笑みのたいそうチャーミングな愛くるしいお嬢さまでございました。
私は1年から3年まで学生主管をし、高2の時は当該主管(普通の学校でいう担任)をしました。
担当は国語で、必須科目の現代国語と、選択の中国語、国語表現という三つの授業で、紀子さんのお相手をいたしました。
ある新聞に「作文がモタモタしているので注意を申し上げたら、めきめきと成績が向上した」との私の談話がでましたが、あれはちがいます。
紀子さんの作文はモタモタしてはいません。
ただ、教師の業と申しましょうか、きちんと書かれてはいる、確かにわかっておられるが満点はつけられない答案もあるのです。
紀子さんほどの力のある方にはよりパーフェクトを求めてまして、御家庭の協力を仰ぐべく、夏休み前にお母様にお目にかかりたいと願っておりましたら、
お母様だけでなくお父様まで、足をお運び下さいました。そこで、真剣にお話し合いをいたしました。
そうしましたら、その夏休みの半ばすぎに、お父様よりお便りを頂戴して感激いたしたことを記憶しております。
紀子さんが(作文力向上のため)努力している、という報告でございました。
永年の教師生活で、父兄の方からこのような手紙をいただくことは稀なことでございます。

「授業中の具体的な思い出」?難しい質問ですね。職業上、知り得た秘密は明かしてはなりませんが(笑)、
国語表現の時間に対応表現や敬語の練習をしたことがございます。
ふだんは、私は「ゴザイマス言葉」、生徒は「デス言葉」で話しあっていますが、この時間は「ゴザイマス」には「ゴザイマス」で答えます。
「いいお天気でございますね」「そうですね」ではなく「さようでございますね」というわけ。
その頃、間違いますと、自分で自分の頬を叩く仕草が生徒の間で流行しておりまして、
一言いってはパチン、又パチンと、皆さんパチンパチンの連続で、「大切なお顔を叩きなさるな」と私が注意するほどでございました。
紀子さんはご家庭のお躾ができておりましたから、対応表現などはじゅうぶんにおできになるのですが、時折、言いよどんだりしますと、
友人を真似て、ニコニコしながら、ご自分の頬をパチンと叩くんです。その時の可愛い仕草や微笑が、今でも目に鮮やかに浮かびます。

平安朝のお姫様のほめ言葉に『うるわしくものしたもう』というのがございます。
これは単にうつくしい、きれいだというのではなく、端正であるとか、きちんとなさるという意味だと聞いておりますが、
紀子さんの仕草はまさに『うるわしくものしたもう』でございます。
みんながさぼってしなかったお掃除でも、紀子さんを見つけて「お願いね」と言いますと、きちんと果たして下さいました。
人の嫌がる仕事を、いとわずにしてくれるんですね。紀子さんは丹精をこめて、しかも丹念になさるんです。

川嶋教授とこの会話を交わしたのは、お馬の会の催し
(学習院大学馬術部が毎年1月中旬に催す『初乗り会』。
川嶋教授は馬術部長)でのこと。昨年か、一昨年のことでございます。
実は、その前の年でしたか、やはり『初乗り会』で、私は礼宮さまに、そばに川嶋教授がいらっしゃったものですから、
「川嶋教授にはお嬢さまがおいであそばしますけれども、ご存知でいらっしゃいますか?」と、伺いました。
宮さまは、「存じております」とおおせになりました。その時、青年らしいはじらいを感じました。
私は、「(宮さまと紀子さんは)いいお友達でいらっしゃるのだなあ」とその時、思いましたよ。
その後、あからさまには話題にせずにおりましたが、川嶋教授が「疎まれている」とおっしゃられた時、私はご家族の苦悩を拝察した思いでございました。
川嶋家といえば今年の春、インドネシア、フィリピンとご家族旅行にお出かけになりましたが、
それが一部の報道では宮さまを追いかけてイギリスに行かれたようなことになっています。
でも、あれは、まったくの誤りです。私自身、インドネシアから紀子さんにお便りをいただいていますし、
私の教え子の一人も、川嶋家のインドネシア旅行に途中で合流させていただいたのですから。


川嶋紀子さんの魅力のすべて ブレーン出版編集部 (著)
帰国子女の常として、国際的な視野に立つ考え方をするかたわら、紀子さんは高校時代からボランティア活動に精を出すようになっていった。
故・ 昭和天皇は皇族の条件として、“無私”ということを言われ、その徳を尊ばれ精進することを望まれた。
すなわち、自分を捨て国民に尽すことを第一義とされた のである。
この昭和天皇の精神は、いまの皇室にも受け継がれ、それゆえ国民から皇室への敬慕もよりいっそう深いものとなっている。
『のぞみ』のメンバーであり、自身も聴覚障害をもつ伊藤文久さんは、『女性自身』平成元年9月26日号で、紀子さんの印象を次のように語っている。
「初めて障害者に接するとき手話を知らないことで、臆したりするんですが、
彼女は自然に障害者達のなかに入っていくんです。素晴らしい人だなあと思いました」
同じく『のぞみ』のメンバーのひとり、佐藤正之さんもこう語っている。
「たいていの人は、私と1対1で 手話で話していても、隣りで友人達がおしゃべりしてたりすると、
その話が耳に入ってきて、彼らの会話に加わったりするんです。
でも、紀子ちゃんは、ほかの人の話に気をとられることなく最後まで私と話してくれるし、
手話に心がこめられているようでした。それがいちばん嬉しかった」
紀子さんの人柄のよさは、手話のときでもいかんなく発揮されたといえよう
「彼女は、『私は結婚しても自分のやりたいことと主婦業を両立させていきたい』と常々言っていました。
かといって、女性の自立に固執するタイプでもありません。
皇室に入るのも、自分の社会的見聞を広げる意味で、ひとつの可能性と考えているのではないでしょうか」


週刊現代1989年9月16日号 ニュープリンセス川嶋紀子さん「22年間の履歴書」
30倍強の競争率をクリア
しかし、日本語のまったく話せなかった紀子さんが、3年後に学習院初等科に編入するころになると、まるでちがった少女に成長していたのである。
「ええ、4年生からの編入でしたが、応募者100人くらいのうちから試験に通ったのはたったの3人。
むろん成績は優秀でしたよ。とくに作文力のすぐれた生徒でした。彼女の印象といえば、とにかく優等生だったということ。
衣服のたたみ方も机の中の整理も几帳面でキチンとしてましてね、いつもニコニコと愛くるしい人でしたね」
そう語っているのは、紀子さんを4年生の1学期から5年生の1学期まで担任した学習院初等科の上野修示先生だ。
そして、学習院初等科の5年1学期をすますと、
紀子さんはこんどは両親と一緒にオーストラリアのウィーンへ行くことになる。
父親の辰彦さんが、ウィーン郊外のラクセンバーク研究所の主任研究員に招かれたからだ。
そして約2年後の昭和54年9月、帰国して学習院女子中等科へ。
その中学校時代からの同級生の橋本雅代さんは、紀子さんの印象を「とにかく優しい人」の一語につきるといっている。
「それとね、何にでも一生懸命に打ち込む人なんです。中1のとき一緒にテニスをやることになり、
『私、あまりうまくないの』といっていたのに、高等科では院内スポーツ大会のダブルスで優勝してしまうんですから。
紀子ちゃんなら皇室に入っても絶対に大丈夫、うまくやると思いますよ」


美智子さまと皇族たち 河原敏明
紀子さまの時は、秋篠宮さまは、両陛下に紹介したあと、数年の交際期間を置いて結婚されている。
その間、御所にも何度も遊びに行かれて、家族同然に親しくなられている。
秋篠宮さまが留学に行かれた際は、寂しくない様に、美智子さまが直々に紀子さまをお一人で
あるいは、ご両親込みで御所に招待され、お食事をされたりお茶をされたりしている
これら、手話、青年の船そして琉球舞踊の勉強は、美智子さまの意向を強く反映したものらしい。
すでにご婚約の1、2年前から紀子さんに、社会の見聞を広めることを礼宮を通じて伝えておられたようだ。
その頃から二人は結婚に至るだろうと美智子さまは見ておられたのである。

1990年6月 毎日新聞
ぬいぐるみとお嫁入り
紀子さん「私の宝物だから…」道具類の片隅にそっと

「ぬいぐるみと一緒に皇室へ」―。
29日、礼宮さまと結婚する学習院大大学院生、川嶋紀子さん(23)は、子供のころから大切にしていたぬいぐるみを、
赤坂御用地内の仮宮邸に運んだ嫁入り道具の片隅にしのばせた。
人形好きの紀子さんが幼児のころから眠る時はもちろん、ふろなどに持ち込んで文字通り生活を共にしてきた数種類のぬいぐるみ。
傷みが激しく、つぎはぎだらけだが、紀子さんは「私の宝物だから」と持参することにしたという。
父親の同大教授、辰彦さん(50)と母親の和代さん(48)の二人も
「思い出を運ぶぬいぐるみに、つらい時は話しかけ、明るさを失わないで欲しい」と「可愛らしい幼なじみ」に愛娘の幸せを託している。
紀子さんはたくさんのぬいぐるみを持っているが、一番、大切にしているのは、体長25センチほどの犬のぬいぐるみ。
昭和42年9月、辰彦さんの米・ペンシルベニア大留学に伴い、一家で渡米した際、アパートを探す前に、
約三週間、世話になった知人から贈られた。薄いエビ茶色で、二つの長い耳とシッポがある。
当時、一歳だった紀子さんは、すぐに気に入り、「わんこちゃん」「ドギー」などと呼んで、とても可愛がったという。
和代さんらによると、外出する時も肌身離さず持ち歩き、眠る時も一緒。トイレやおふろにもぬいぐるみを抱いて入り、
バスの中に沈めたりして遊んだ。ズブ濡れになったぬいぐるみは、早速、乾燥機に入れられたが、
紀子さんは乾くまで、じっと乾燥機の前で待ち続けていたという。
当時、辰彦さんは生計のためアルバイトをしながら、博士論文を作成する忙しい生活。
和代さんも論文仕上げの手伝いに追われ、紀子さんの面倒を見られない時が多かった。
そんな時、紀子さんはぬいぐるみを相手に一人で遊んでいた。
「紀子は、犬のぬいぐるみを抱かせると、大声で泣いていても、いつの間にかコトンと眠ってしまう子供でした。
歯並びが悪くなると歯医者の先生に指摘され四歳の誕生日から、指のおしゃぶりはやめさせましたが、
ぬいぐるみだけは、小学生のころまで離しませんでした」と和代さん。
また、紀子さんは小学校一年生のころ、辰彦さんから米国製で80センチほどの大きさの男女ペアのぬいぐるみをもらった。
ピースマークのバッジを、この二つの人形に着け、犬のぬいぐるみ同様、大切にしたという。
これらのぬいぐるみは、取れた耳やシッポをつなぎ合わせたり、ポロポロになった洋服につぎを当てて、
結婚が決まってからも、部屋の棚の上に飾っていた。
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毎日新聞(夕刊)1990年6月29日
「紀子ちゃん ありがとう」
父親の思い  辰彦さんが談話
紀子さまの父、学習院大教授、川嶋辰彦氏は、家族ぐるみの交際をしていた記者の求めに応じ、
紀子さまのエピソードなど次のような談話を寄せた。
(江森敬治記者)

幼い日の心配り
大学一年の四月末に、紀子は初めて、礼宮さまとお会いし、そのことは当日帰宅後、妻に報告していたようです。
その一年数カ月後、礼宮さまからのお話を紀子から打ち明けられた妻は「紀子ちゃん、よく考えてみましょうね」と諭し、
二人で再三、この事柄について話し合っていたようです。
私は、助言を「お互いの性格について広く知り合う期間を十分に持ってはどうか」とのレベルにとどめました。
昨年八月二十五日の夕方、妻と私が赤坂御所から帰宅した後、
妻は「紀子に対する皇后陛下のあたたかなおぼし召しに、気持ちの整理ができ、心が落ち着きました」と私に語ってくれました。
愛するわが子の成長を同じようにこいねがう一人の母親としての皇后さまがお聞かせ下さった、礼宮さまと紀子とのお話を伺い、
山裾に最後まで残り棚引いていた一条の朝霞がうららかに晴れ上がる光景を目にする気持ちにも似た、
穏やかな安堵感と深い感謝の念を、妻は胸の内に強く刻んだようです。
紀子の思い出としては、三、四歳のころ、米国に滞在中、両親に連れられてスーパーマーケットへ買い物に行く途中はたいてい、
一軒ずつ軒並みに、道路から各家のテラス式玄関に通じる階段を一人で上り詰めては、また、降りてくる動作を好んだり、
公園の樹木に他の子供たちと一緒に元気で登ってしまうなど、活発な子供でした。
紀子が四歳の終わりごろ、私は勉学のかたわら、ハリスバーグにあるペンシルバニア州政府の庁舎でコンピューター分析の仕事を手伝っていました。
ちょうど博士論文作成の最終段階でしたので、週末は、家族が住むフィラデルフィアに戻り、論文の仕上げ作業に大わらわでした。
私が手書きした論文の下書きを妻がタイプに打ち直します。それを私がまた修正し、妻が再びタイプに打ち込みます。
このような作業の繰り返しでこの時期の週末は時間に追われるまま、紀子をほとんど世話することができませんでした。
また、食事を済ませた後の食器は、妻が後でまとめて洗うため流し台に置いたまま、ためてありました。
そんなある日、紀子が、流し台の前に大きな踏み台を持ち運び、汚れた食器を全部洗ってくれました。
もちろん、妻が頼んだわけではありません。私たちの作業部屋と台所は離れているので、食器を洗う音は一切、聞こえてきませんでした。
偶然、台所に入り、紀子の心配りに気づいた瞬間、目頭が熱くなる不思議な感動を覚えました。
紀子は、七つ違いの弟の舟が生れた直後からミルクをあげたり、おしめを取り換えたり、と彼の面倒をよく見てくれました。

スキー場の思い出
一九七九年の一、二月ごろ、家族でオーストリア・アルプスのスキー場に出かけた時のことです。
紀子は舟をリフトの隣席に乗せ、山頂付近に上り、標高がある方のゲレンデで舟を連れてスキーをしていました。
ところが、天候が急変し、強風が吹き荒れ始めました。リフトは当然ストップ。
従って、上のゲレンデで滑っていた人たちは、はじめ予定していたように、リフトで下まで戻ってくることができなくなりました。
山頂付近は、深い霧に包まれてしまいました。親子連れたちは、親がスキーをはき、子供をおんぶして下山を始めました。
紀子はスキーをはかせた舟を自分の両足の間にはさみ、ゆっくり、ゆっくりと蛇行しながら、スキーで下り始めました。
七、八百㍍離れた山の斜面の深い霧の中から豆粒のように現れた二人を下から見つけた瞬間の、うれしかったこと。
じりじりと妻と待ちわびていただけに、無事に戻った二人を思わず、固く抱き締めたことを覚えています。
紀子はいわゆる帰国子女、また、私の仕事の都合で小学校を六回変わりましたが、登校を嫌がったりいたしますことはなかったように記憶しております。
妻は「手の掛からない子供だった」と振り返っていますが、私も、紀子が健康で素直に育ってくれたことを何よりもうれしく感じます。
私たちが子供を育てる過程で、教育理念といった確固たる方針を持ち合わせていたわけではありません。
ただ、創造性を大切にし、子供たちの精神の自由を大事にしてやりたいと考えておりました。
先入観や偏見を持たせず、親の価値観を押し付けない。子供たちが自分なりの、ものの見方や考え方を構築していくうえで参考になればと、
いろいろな場所に出かけ、さまざまなものを見せようと心がけたことぐらいでしょうか。
ヘビは、気持ちの悪い生き物というイメージが一般的ですね。
しかし、これではヘビが気の毒でしょう。
子供たちに、ヘビに関するこうしたネガティブな先入観を抱かせないために、米国にいた時、
ペンシルバニアのワシントン・クロッシング州立公園の小さな自然博物館で妻と率先して、胴の直径が五、六㌢もある生きたヘビを触り、
紀子に“手本”を示すと、紀子も親しみを感じて、ヘビを興味深そうになでていました。
紀子は、今でもヘビを怖がることなく、触れると思います。

熟慮の末の結論を尊重
私は米国滞在中に、肌の色の違いを乗り越えて頑張っている多くの人々を見かけ、深い感銘を受けました。
ですから、娘にも人種を超えた人間個人の素晴らしさを日常生活の中から、知って欲しいと思いました。
紀子が六歳前後のころ、私たちはフィラデルフィア市に居住していました。
近所には、白人の子供たちがほとんどを占める小学校と、
黒人の子供たちが大多数の小学校がありました。私たち夫婦は、話し合ったうえ、せっかくの機会を大切にしたい、と
娘を後者に入学させることにしました。
娘にも偏見を持たせず、学校で自然に黒人の人たちとも親しくなり友達となることによって、娘も大きく成長するのではないかと考えたのです。
私たち家族は、娘が熟慮の末にたどりついた結論を尊重するように努め、加えて「その結論は甘受するように」と、私は紀子に話したことがあります。
また、礼宮さまと紀子の新しいジェネレーションが下した意思決定をしっかりと胸に受け止めてあげたいと存じます。

明るく送り出したい
彼女との思い出に心をめぐらしますと、カナダのケベック市北方に広がる山岳公園を流れるシクチミ川で、
五歳の紀子と二人して魚釣りをした光景が鮮やかによみがえってまいります。
寂寞たる針葉樹に囲まれた川面にカヌーボートを浮かべ、木枝の先に結んだ釣り糸を水の中に投げ入れる。
エサに食らいついた魚の激しい動きで、木の枝がブルブルと震える。
この釣りに対する初めての驚きと感動を、そのとき娘は目を輝かせて、英語で私に語ってくれました。
清流の音しか聞こえない大自然の中で、紀子とぼくだけで過ごした、あの空間と時間のゆったりとした流れが、不思議と想起されてなりません。
紀子は、かけがえのない思い出を私にプレゼントしてくれました。
私は紀子に対して、感謝の気持ちでいっぱいです。「紀子ちゃん、ありがとう……」


読売新聞 1990年6月29日
さわやか“6月の花嫁” 手握りしめ送る父 「行って参ります」と紀子さん微笑
◆後輩が祝福の花束…
「行って参ります。ありがとう存じました」。旅立ちの朝、花嫁は言った。
住みなれた3LDKを後に、いつもの笑顔で皇居へと向かう娘の姿に、母は涙をこらえ、父は手を振った。
29日、平安絵巻そのままに行われた礼宮さま(24)紀子さま(23)の「結婚の儀」。
キャンパスの出会いから5年を経て、お2人が「秋篠宮ご夫妻」になられたこの日、
十二単(じゅうにひとえ)をまとったジューン・ブライドは、喜びを包みきれぬように輝いていた。
前夜11時すぎにやすんだ紀子さまは、この朝4時にはもう目を覚ました。
コチョウランやユリの花を飾ったテーブルで、パン、紅茶、果物の朝食。
お迎えの手塚英臣侍従は、6時25分、川嶋家に到着した。
「感謝しつつ、この日の朝を厳粛な気持ちで迎えました」と、
嫁ぐ日の心境を家族に託した紀子さま。
父、川嶋辰彦さん(50)、母和代さん(48)、弟舟君(16)が
「お元気で行ってらっしゃいませ」と、口々にはなむけの言葉を贈ると、
「行って参ります。ありがとう存じました」と短く答えた。
淡いピンクのワンピース、同色の帽子に、真珠のネックレスとイヤリング。
学習院共同住宅4階の自宅から狭い階段をゆっくりと下りる紀子さまの後ろに、
舟君、そして両親が続いた。紀子さまは緊張のためか、伏し目がちで固い表情に見えた。
しかし、住宅の前で、同じアパートに住む学習院女子中等科1年、箱崎貴子さん(12)が、
カーネーションなどの花束を手に走り寄ると、いつものスマイルが顔いっぱいに広がった。
「おめでとうございます。末長くお幸せに」。後輩の祝福に紀子さまは「ありがとう……」
天皇陛下差し回しの「センチュリー」が横づけされる。家族が1列に並んだ。
「お元気で」と笑いかける弟、そして母、父。舟君は、未成年のため「結婚の儀」に参列できない。
紀子さまは1人ひとりに、短く別れを告げた。
和代さんには「お世話になりました」とでもいうように頭を下げた。
和代さんは何事か語りかけて、うつむき、唇をかんだ。
辰彦さんは、紀子さまの持っていたバッグを取り、右の手で娘の手を固く握った。
ドアが閉まり、パトカーの先導で車は静かに走り出した。
モーニング姿の辰彦さんは右手を高く上げた。万感の思いが胸に迫るのか。
車列が門の外に消えるまで、円を描くように振り続けた。
◆礼宮さまとお幸せに 会見で両親
結婚の儀の後、川嶋辰彦、和代さん夫妻は賢所近くの特設テント内で記者会見、娘の晴れ姿を見届けた親の心境を語った。

--結婚の儀が終わられて、どのような気持ちかお聞かせ下さい。

辰彦さん 静かな水面に映える虹(にじ)の七色にも似たひとつのおごそかさと、
それに重なるような美しさに心の静かな動きと漂いを覚えたような気持ちです。

和代さん 無事に今日の日を迎えられたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

--お2人にどのような家庭を望まれますか。

辰彦さん 天皇、皇后両陛下をおうやまい申し上げ、礼宮さまとお幸せに、と祈りたく存じます。
和代さん 私も夫と同じ考えでおります。

平成皇室論
橋本明 朝日新聞出版2009年7月
紀子は昭和41(1966)年9月11日静岡県で生まれた。
川嶋辰彦学習院大学経済学部教授の長女である。
幼少期をアメリカ、オーストリアで過ごし、帰国後学習院中等科に編入、
高等科を経て同大学文学部に入学した。辰彦は計量経済学の学者。
謹厳実直な教授は学習院敷地内の職員宿舎に住み、3LDKほどの住居で
つつましやかな生活を営んでいた。教授が馬術部長を務めていたころ、
学習院の馬場を見下ろす北側の斜面通路で当時桜鞍会会長だった東園基文から
紹介を受けたことがある。白いものが増えた頬髭にロイド眼鏡、
長身で痩せぎすの川嶋は明るく礼儀正しい人物だった。
 

御父上様・御祖母様

■紀子様御父上婚約内定時のご発言
 「この機にあたり紀子には、皇族の責務をしっかりと自覚し、自覚のもとに自重し、自覚に照らし合わせ両陛下に対して尊敬申し上げ、
 礼宮さまのご指導のもとに新しい家庭、宮家の中で、気負うことなく、人間性を結実してくれれば、と願っています。」

■ご成婚の際の祖母川嶋紀子(いとこ)さんから紀子様に宛てた手紙

 謹みて御祝詞申し上げ参らせ候
 おそれ多くもあなた様には礼宮殿下との御婚約御整わせられ御輿入れの御事
 誠に御目出度く心より御祝詞申し上げ奉り候
 御婚儀の暁には背の君にあたらせ給う礼宮殿下に御心も御身もお捧げ参らせ温かに御仕え遊ばされ度く願い奉り候
 かたじけなくも天皇、皇后両陛下御はじめ皇太后様、皇族方にも心優しくお仕え遊ばれ候よううち願い奉り候
 申し上げ候もおそれ多い御事ながら内に慈悲の心を持ち風になびく如く物柔らかの温かい御心を持たれ多くの御方々に御接し遊ばされ度くお願い申し上げ候
 この様な御心お持ち遊ばされ候はば神の御声もおわしまし候御事と存じ奉り候       かしこ


 「ひんがしのあかねの色に染められて 富士の白雪桃色に映ゆ」

 紀子どのへ 参らす
 平成二年六月吉日  祖母川嶋紀子




エピソード

夕食の席で昭和天皇が「ヒオウギアヤメと、ナスヒオウギアヤメの関係を知りたい。由来や起源はどうか」という話題を出された。
当時大学生だった礼宮様が生物学者に相談してプロジェクトが始まった。
経過報告は礼宮様の役目。それは昭和天皇の具合が悪化するまで続けられた。
結婚にあたって、そのエピソードを踏まえ今上陛下に相談して紀子様のお印を決めた。


1993年3月27日に天皇皇后両陛下が紀子様のご実家の学習院教員住宅に行った。
両陛下は川嶋家のローストビーフを召し上がられた。


紀子様が結婚してしばらくした頃、静岡のおじいさま、おばあさまのところに電話したら、
「じじばばに電話する暇があったら、皇室の為、宮さまの為に一生懸命にお尽くしするように」と
川嶋家の両親を通じて諭されたという。


紀子様が小学校の途中で日本に帰ってきたときに、日本語が難しくて
小学校で置いてきぼりになりながらも必死に日本語を覚えていたという。(小学校の先生談)。
そして感情を表したくても日本語が上手く出てこなくて周囲と意思の疎通がまともにできなかったときがあり、そ
のときは家族に対してだけ癇癪を起こすときもあったとか。(川嶋家のお祖母さま談)、
それでも一生懸命に勉強してなんとか周囲と意思の疎通ができるようになった。


家系

紀子様の曽祖父は、朝鮮総督府総監。池上四郎。
安政4年~昭和4年(1857~1929) 会津藩士池上武輔の四男として生まれ、明治10年警視庁に巡査として採用され頭角を表す。
日本各地の警察署長を歴任、大阪府の警部長を務め、その手腕を余すところ無く発揮し13年間にわたり大阪治安の元締めとして活躍した。
大正2年大阪市長に推され3期10年を務めた。
退任後は朝鮮総督府政務総監となったが任期半ば東京で没した。
池上四郎氏の子が紀子(いとこ)さん。


1989年8月27日のニュース、舟さんの活躍ぶり。
まだ高校生なのに報道陣相手にがんばりました。
紀子さんあてには押し花電報も届けられたが、この日、川嶋宅に入ったのは、地元の呉服店の店員2人と、臨時電話の架設に訪れたNTTの職員だけ。
夜になって報道陣のチャイムに、弟の舟(しゅう)さん(16)がドア越しに応対した。
しかし、写真撮影の申し込みに、「お気持ちに沿えないことをお許し下さい」と丁重な断りの答えが返ってくるばかりだった。


『紀子さまの優しい微笑み』(松崎敏弥、フローラル出版)P125より
紀子さまの父方の曽祖父にあたる池上四郎氏は、先にも触れたように父の会津藩士武輔氏(二百五十石取り)とともに戊辰戦争に従軍した。
四郎氏は安政4年の生まれ、戊辰戦争の頃は、数えで12歳だったという。
鶴ヶ城にたてこもって戦ったとき、いわゆる唐人凧(とうじんだこ=別名“べろくんだし”と呼ばれる、
べろを大きく出した顔のついた凧)を上げ、味方の士気を鼓舞した少年たちの一人だった。

四郎氏のその後
官軍に破れたのち四郎氏は父と共に辛酸を舐め、のちに上京、警視庁の警部補に。
聡明で素行もよかったのでとんとん拍子に出世、大阪府警部長に。
そして大正2年、与党から押され出馬、大阪市長に当選。3期を務め、名市長とうたわれた。
こうしたことから昭和10年、天王寺公園に銅像が建立された。
この銅像、「太平洋戦争時に金属供出のため壊されたが戦後再建された」

四郎氏が大阪市長を務めたのは3期10年、1927年まで。
1929年に亡くなって、銅像ができたのが1935年。(死後)
銅像再建されたのが1959年。死後30年。



中村彰彦『会津武士道』より 
この池上四郎がすぐれた危機管理能力を発揮したのは、大正十二年九月一日に関東大震災が発生したときのこと。
彼はいち早く救援物資を満載した船を大阪港から横浜港へむかわせ、
罹災した多くの東京・横浜市民から感謝されました(宮崎十三八『会津地名人名散歩』)。
おそらく四郎は、保科正之が救急医療制度を創設する一方で飢饉に襲われた近隣に社倉米を貸し出したことを学んでいたのでしょう。
しかも彼は、自身が籠城戦を経験していますから、パニックとはどういうものを知っていたはずです。
かくて彼は、東京が壊滅状態となった未曾有の危機に、人を助けることこそ会津武士道だと思いを満天下に示してみせたのでした。
さて池上四郎の娘は名を紀子(いとこ)といい、内閣統計局長などを歴任した川嶋孝彦に嫁いで川嶋姓に変わりました。
そのお孫さんが川嶋紀子(きこ)さん―今日の秋篠宮妃ですから、秋篠宮と紀子さんの御成婚が決まったとき、会津の人たちは、
「かつて会津松平家から勢津子さまが秩父宮家へ嫁いだら、今度は旧会津藩士池上家から妃殿下が誕生した」と大喜びでした。
そこへ持ってきて秋篠宮家に悠仁親王が誕生したのですから、ゆくゆくは高遠と会津の血を引いた天皇が生まれる可能性も出てきたわけです。
会津の人にとっては、まことに喜ばしく、感慨深いことでしょう。



秋篠宮紀子妃殿下の家系図


秦氏-その1
紀伊国安諦郡幡陀郷について地元の榎下さんから教えてもらいました。 
有田郡最東部にあたり、現在は有田郡清水町安諦地区で、地区には板尾、押出、北寺 等の地名が残っていますが、ハタ・ハダの名は残っていません。
ただ、板尾には三大神社が鎮座、祭神に御食津大神、大年神、三筒男神の名が見えます。
創建の起源や由緒はわかりませんが、大年神の子神は秦氏が祭った神との説、
三筒男神の住吉大神は神功皇后とのつながりでやはり秦(波多)氏との関係が深く、板尾は秦氏がいたのかもしれません。


川嶋家は、島津家と先祖を同じくする名家。
秦氏を起源とする地域は全国的に広がっていて、神奈川県の秦野市、高知県の幡多郡などが知られている。
また、幡多郷と書く地名は、三河国渥美郡(幡多郷)、近江国長下郡(幡多郷))、
紀伊国安諦郡(幡陀郷)、肥後国天草郡(波多郷)などがある。
意図的に松浦平吉を同和扱いにしている集団がいる。(創価、ワールドメイト及び某宮家、医療関係者へ伝播)
有田郡安諦村(現清水町)は同和地区ではない。

紀子さまの曽祖父を研究 報告書まとめる(2013/04/24 22:29)
青森中央学院大学の竹中司郎准教授(69)が、秋篠宮妃紀子さまの曽祖父で、
会津藩から現在の五戸町に移住した元大阪市長の池上四郎(1857~1929年)に
焦点を当てた研究の成果を
「戊辰戦争を遡源とする青森県ゆかりの天皇即位の可能性」と題した報告書にまとめた。
青森県立野辺地高校長時代から約10年間続けてきた研究の集大成。
「池上が青森に住んでいたという事実を後世に残したいと思った。この歴史を多くの人に知ってもらいたい」と話している。
http:// cgi.daily-tohoku.co.jp/cgi-bin/news/2013/04/24/new1304242201.htm

国の繁栄に思い共有 青森で建国記念奉祝大会
2018.2.12 11:07
青森市の諏訪神社で11日、第47回建国記念の日奉祝大会が開かれた。
参加者約70人が、国際情勢が厳しさを増す中で日本の果たすべき役割や今後の繁栄に思いを共有した。
大会では実行委員会の高橋修一会長が「平成が終わろうとする時、我が国の伝統、文化、歴史、風土、国のありさまをしっかり考え、
次なる時代に向かって一歩を踏み出すことが重要」とあいさつした。
青森中央学院大の竹中司郎特任准教授が「戊辰戦争から150年。秋篠宮妃紀子殿下の曾祖父と青森県の縁」と題して記念講演。
紀子さまの曾祖父で、会津藩で生まれた池上四郎元大阪市長が戊辰戦争の敗戦によって青森県の斗南藩で3年余り過ごしたことに触れ、
皇室と同県の関わりを紹介した。
http:// www.iza.ne.jp/kiji/life/news/180212/lif18021211070009-n1.html



  • 最終更新:2019-04-02 16:48:21

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