話の肖像画 彬子女王

2015.6.1 08:20更新
【話の肖像画】
寛仁親王殿下第1女子・彬子女王(1)薨去3年 父の偉大さ実感
〈6日で父、寛仁(ともひと)親王殿下が薨去(こうきょ)されてから丸3年を迎える。
彬子さまは、寛仁さまが取り組まれてきたご公務のうち、
日本・トルコ協会、日本職業スキー教師協会、中近東文化センターの各総裁の役職を引き継がれている〉
3年がたち、父がなさってきたことの大きさを感じています。
父の公務を私が国際交流関係とスポーツ関係、妹(瑶子(ようこ)さま)が社会福祉関係と分けて引き継いでいますが、
父がこれを一人でされていたということに改めて尊敬の念を抱きます。
全てのお仕事に対して本当に全力投球で責任を持ってやっていらっしゃいました。
新しいことを始めるときには「父だったらなんとおっしゃるだろう」と考えます。
ですが、あまりとらわれすぎてもいけないと最近は思うようになりました。
1年目は「本来であれば父がごあいさつするところでございますが…」と、父の代理というつもりでやっていましたが、
2年目からはできるだけ私自身の言葉で伝えることが重要だと感じています。
私の公務については、父の生前から一緒に行っていたものがほとんどです。
おそらく父は「お前にも関わりがあるから見ておけよ」というようなおつもりであったと思います。
〈寛仁さまは裏表がないお人柄で、「議論好き」としても知られていた。
一方で、皇族としての振る舞いには非常に気を配られていた〉
議論はよくしておりました。無意味な会話がお嫌いなので、「じゃあ、お前はどう思うんだ」という感じで。
父は親子というよりも、人生の先輩として娘たちに接しておられたような気がします。
初等科のころに学校行事に来てくださった記憶はあまりありません。
ご公務などでお忙しくされていましたし、議論ができない子供にはあまり興味がおありにならなかったのかもしれません。
私が高等科ぐらいになって、同じ土俵に上がって会話ができるようになってからの方が父との記憶は強く残っております。
私の知らなかった父の仕事のときの姿を耳にすることもあります。
「ホテルの部屋でずっとお酒を飲ませていただきました」というような話も聞かせていただきますが、
それはやはりそうでしょうね、と思うことなので、イメージとかけ離れていることはありません。
父とはいえ身位が上の皇族さまであり、敬語で話すのが当たり前だと思ってきましたので、
友人の家に遊びに行き、友人が「お父さん、○○取って」と話しかけるのを聞き、「そういうものなのだ」と衝撃を受けたことがあります。
父からは服装に関して、プライベートな旅であっても、
公共の交通機関に乗るときに「いいかげんな格好をするな」とよく注意をされました。
当時は「面倒だな」と思っていましたが、今思うと、いつ、どこで、誰に見られているか分からないのだから
皇族としては当然のことです。子供のころは実感がなかったのですが、多くの方と接する機会が増えた今になって、
「父がおっしゃっていたことはこういうことだったのだ」とひしひしと感じることがあります。
(聞き手 伊藤真呂武、今村義丈)

  ◇

【プロフィル】彬子(あきこ)女王
昭和56年12月20日、寛仁親王殿下の長女としてご誕生。お印は「雪」。
学習院大文学部史学科に在学中の平成13~14年と、同大卒業後の16~21年の計6年間、
英オックスフォード大マートン・コレッジに留学し、
「日本美術史」の研究で女性皇族として初めて博士号を取得された。
現在は、京都市立芸術大芸術資源研究センター客員教授兼特別招聘(しょうへい)研究員、
京都産業大日本文化研究所専任研究員として研究を続けられている。
24年4月に自ら立ち上げた一般社団法人「心游舎」の総裁を務め、
子供に日本文化を伝える活動にも携わられている。
http:// www.sankei.com/life/news/150601/lif1506010014-n1.html


2015.6.2 07:38更新
【話の肖像画】
寛仁親王殿下第1女子・彬子女王(2)祖父母は「人生の目標」
〈祖父の三笠宮さまは今年12月で100歳となられ、祖母の三笠宮妃百合子さまは今月4日に92歳の誕生日を迎えられる〉
人生の目標というか、あのようにお年を重ねていけたらと思います。
俳句という共通のご趣味をお持ちで、季節の移り変わりを同じように感じられて、一句詠まれるということはすてきだと思います。
祖父は昔のご記憶が鮮明でいらっしゃって、軍隊にいらした時のことですとか、
初めて大学で教鞭(きょうべん)を執られた時のお話などを聞かせてくださいます。
私が申し上げるのは僭越(せんえつ)ですが、それをオーラル・ヒストリーとして残しておくべきだと思うところはあります。
祖母からは皇室の習慣、伝統にどういう意味があるのかということをよく聞かせていただきます。
例えば、皇族がなぜ帽子をかぶるのか。祖母に伺うと、「日よけなのよ」とお教えくださいました。
基本的に帽子は明治時代に外国から入ってきたものですが、
当時外に出るときは日よけとして帽子をかぶるのがエチケットであり、マナーでした。
皇族にはその習慣が残っているので外出時は帽子を着用しますが、
午後4時以降の行事では帽子をかぶりません。なぜなら4時以降は日をよける必要がないからです。
皇族の習慣には理由があり、それを次の世代につないでいかなければならないと思います。
祖母は皇室の知識の宝庫でいらっしゃるので、本当にありがたく思っております。

〈父の寛仁親王殿下に続いて、昨年6月には叔父の桂宮さまが薨去(こうきょ)された。
同10月には高円宮妃久子さまの次女、千家典子さんが結婚して皇籍を離脱した。
皇族が減少する中、女性宮家の創設や女性皇族の結婚後の公務のあり方などについて議論が続いている。
彬子さまは別のインタビューで、
女性宮家について「決めるのであれば早く決めていただきたい」と語られたと紹介され、波紋を呼んだことがある〉

当時の報道ではかなりの部分を省略されてしまったので誤解が生じてしまいました。
この問題に関しましては、できればきちんと多くの方で議論していただき、
どこかで変えなくてはならないことだと思っていることは事実です。
現状のように方針が論じられることなく、先送りにするだけになってしまいますと、
その決定次第では人生設計を大きく変えなければならない女性皇族にとって、
大変厳しいことであることを分かっていただきたくて申し上げました。
父の生前は、妹(瑶子さま)ともこの問題について話し合うことがありました。
私たちは結婚したら皇室の外に出るものとして育てられてまいりました。そ
の大前提が崩れるか崩れないかというのは、女性皇族の人生にとって大きなことではありますが、
今は頂戴したお仕事を真摯(しんし)に務めさせていただき、皇族としての務めを果たしていくのみだと私は思っております。
(聞き手 伊藤真呂武、今村義丈)
http:// www.sankei.com/life/news/150602/lif1506020006-n1.html

2015.6.3 06:48更新
【話の肖像画】
寛仁親王殿下第1女子・彬子女王(33)(3)
戦後70年 記憶を語り継いで
〈戦後70年を迎えるのにあたり、天皇、皇后両陛下は昨年から沖縄、
長崎、広島をめぐる「慰霊の旅」を重ね、今年4月には日米双方で
約1万2千人が犠牲になったパラオ共和国ペリリュー島で全ての戦没者を追悼された〉
本当にたくさんの方たちの心が救われたと思います。
両陛下が国民一人一人に心を寄せられて、ずっと魂の巡礼の旅をされているというのは本当にありがたく、
日本という国に生まれたことを改めて幸せに思います。
〈今や戦後生まれが1億人を超え、全人口の8割を占める。
両陛下は、先の大戦の記憶の継承についても常々心を砕かれている。
彬子さまと妹の瑶子さまは、祖父の三笠宮さま、父の寛仁親王殿下にならい、
英霊をまつる靖国神社を春と秋の例大祭に合わせて参拝されている〉
戦後第1世代の父からは「お前のような世代は戦中も戦後も経験していないのだから、
自ら知る努力をしなければいけない、何かを感じて自分の行動を決めないといけない」と言われていました。
祖父母から直接話をお聞きすること、広島や長崎で資料館に行くこともそうですけれど、
やはり記憶を語り継いでいくことをしていかなければいけないと思っています。
〈三笠宮さまは昭和18~19年に中国・南京の支那派遣軍総司令部に所属されていた。
同妃百合子さまとは16年10月に結婚し、19年4月には長女の近衛●子(やすこ)さんをもうけられた。
百合子さまは終戦時、寛仁さまを懐妊されていた〉
一番苦しい時代での婚礼なので、祖母の服装は十二単(ひとえ)ではなく小袿(こうちぎ)でした。
戦争が終わってすぐに父を出産されたので、本当に大変だったと伺っています。
戦後のつらい状況の中で、レクリエーションが必要だということで、
祖父が率先されてダンスなどを推奨されたそうです。
今の宮邸ではなく、借家に住まわれて、とても少ない予算でやりくりされていたという話も伺いました。
ただ、戦争のつらさはもちろんなのですが、その中でも父が生まれた幸せがあったという話をお聞かせいただくので、とても心が温まります。
〈フジサンケイグループ主催の「国民の自衛官」の表彰式には寛仁さまが臨席し、平成25年から彬子さまが引き継がれた。
同年のあいさつでは、寛仁さまが軍人だった三笠宮さまと秩父宮さま、高松宮さまを「大変尊敬されていた」というエピソードを紹介されている〉
父は昔から自衛隊の方たちに心を寄せられていました。
東日本大震災が起こったときには、両陛下をはじめ皇族殿下方が被災者のところに訪問される中で、
「自分は被災者を助けた自衛隊のところに」とおっしゃって慰問に行かれました。
私にとっても、子供のころから自衛官の方たちが身近におられたので、表彰式への出席を引き継ぐことに違和感はありませんでした。
(聞き手 伊藤真呂武、今村義丈)
●=ウかんむりの下に心、その下に用
http:// www.sankei.com/life/news/150603/lif1506030009-n1.html

2015.6.4 07:44更新
【話の肖像画】
寛仁親王殿下第1女子・彬子女王(4)留学記 父との約束果たし安堵
〈英オックスフォード大マートン・コレッジに6年間留学し、日本美術史の研究で女性皇族として初めて博士号を取得された。
1月には留学記「赤と青のガウン」を刊行された〉
祖父(三笠宮さま)が古代オリエントの学者でいらっしゃいますので、
宮邸にはブリタニカ百科事典が全巻そろっていて子供心にも高揚感があるものでした。
分からないことがあって祖父に伺うと、すぐにはお答えにならず、
複数の資料をコピーして届けてくださるのです。少しずつ書いてあることが違うので、
「これが正解というのではなく、あなたの意見をここからまとめなさい」ということだったのだと思います。
資料を見て自分で答えを見つける、学問の面白さを教えてくださったのは祖父でした。
大学2年生で最初の留学をさせていただいたとき、自分が日本についていかに知らないかということを実感しました。
海外では歴史に関しても政治に関しても、日本のことはすべて私に質問がくる。
日本では「専門外なので…」とかわすことができることでも、
海外では「何で自分の国のことなのに分からないの?」と言われてしまいます。
日本人として恥ずかしくない知識を身につけなければと、日本美術を勉強しようと思いました。
〈留学記の執筆は父、寛仁親王殿下と生前から約束されていた。
著書には、寛仁さまの容体が急変されたが、怒られるのを恐れて帰国を断念された秘話も。
結局、研究発表ののちに帰国され、寛仁さまは間もなく息を引き取られた〉
留学中にたびたび帰国したことを「軟弱だ」とよく怒られました。
ですが、私なりの事情がありましたので、父とは何度も戦いました。
父は「自分が負った責任は果たしなさい」という教育方針だったので、
職務でポーランドに出張していたときも行ったからには何もしないで帰るわけにはいきませんでした。
留学記を父に読んでいただけなかったのはとても残念でしたが、約束を果たせたことにはホッとしております。
読んでくださった方からは「こんなにつらい思いをして論文を書いていたのね」とよく言われます。
〈4月からは京都市立芸術大客員教授兼特別招聘(しょうへい)研究員、京都産業大日本文化研究所専任研究員として研究を続けられている〉
京産大では研究室をいただきました。
大学時代に指導教授の研究室の壁一面に本が並べられているのに、憧れがあったのですね。
「これだけの本を読みこなすと、ああいう立派な先生になれる」という意識があったので、
自分がいざその立場になったことに身が引き締まる思いではおります。
公務がない日は朝から研究室で仕事をしております。
ポットを買って、ティーセットを持ち込み、とても快適な環境になりました。
芸大の方では集中講義もさせていただくことになり、今から楽しみにしています。
(聞き手 伊藤真呂武、今村義丈)
http:// www.sankei.com/life/news/150604/lif1506040021-n1.html

2015.6.5 06:34更新
【話の肖像画】
寛仁親王殿下第1女子・彬子女王(5)
伝統芸能 子供の記憶に種を
〈留学中は大英博物館で日本セクションのボランティアを経験し、帰国後は文化財保護をテーマにシンポジウムも開催された。
平成24年からは一般社団法人「心游舎」総裁として、子供たちに日本文化を伝える活動を続けられる〉
日本の未来を担う子供たちが「ご飯とおみそ汁ってホッとするよね」
「床の間にお花が生けてあるっていいよね」と感じられる心の土壌を育まないと、
日本の文化をつないでいくことはできないと思っています。
子供のうちに能や歌舞伎を見ていれば、大人になって伝統芸能を受け継ぐ重要性に気が付きやすい。
子供たちの記憶に種をまく作業を続けていきたいです。

〈3月には宮城県南三陸町で、神棚飾り「きりこ」のワークショップを催された。
同町とは東日本大震災の復興祈願でチリから贈られたモアイ像が縁となり、交流を重ねられている〉
被災地で年1回活動するのが目標です。ニュースで聞くのと実際に経験された方にお話を伺うのとでは
見えてくるものが違ってきます。私に何ができるだろうと悩んだこともありましたけれど、
皆さんにはつらいことがたくさんおありだったはずなのに、にこやかに迎えてくださる。
構える必要はなかったのだと思いました。
年がたつごとに風化してしまうこともあります。
被災地にはまだ仮設住宅にお住まいで、不自由な生活をしておられる方たちがたくさんいらっしゃいます。
私が活動することで被災地の方々に「忘れていませんよ」というメッセージを
伝えることができればいいと思っています。
復興があまり進んでいない地区もありますが、家が新しく建ち、高台の土台作りが終わっているなど
少しずつ変化を感じます。やはり1回だけで終わりというのではなく、
同じ場所に何度も足を運ぶことに意味があると思います。
〈歌舞伎鑑賞が趣味で、中村勘三郎さんとは家族ぐるみで付き合われてきた。
長男の勘九郎さんとは同学年になられる。
平成24年6月6日に父、寛仁親王殿下が薨去(こうきょ)されたのに続き、同12月5日には勘三郎さんも死去している〉
勘三郎さんには本当にかわいがっていただき、第二の父のように思っていました。
人生の転換点で何度も何度も背中を押してくださいました。
あまり結婚して家族を持つことに現実味がなかったのですが、勘三郎さん一家と出会って初めて「家族っていいな」と思いました。
伝統を受け継ぐということに関して共通点も多いですし、分かり合える部分は多い気がします。
私が初めて見た歌舞伎が勘三郎さんと勘九郎さんの「連獅子」でした。
歌舞伎の何たるかも分かりませんでしたが、赤と白の髪がぐるぐる回るのを見た驚きは今も鮮烈に残っています。
私の連獅子の記憶のように、本物の記憶は絶対に心に残ります。
ほかの子供たちにも同じような経験をしてもらえたらと思っています。
(聞き手 伊藤真呂武、今村義丈)
http:// www.sankei.com/life/news/150605/lif1506050006-n1.html

  • 最終更新:2017-05-15 21:07:37

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード