西村眞悟氏

西村眞悟の時事通信バックナンバー

中川昭一さん、心からご冥福をお祈りします
平成21年10月 4日(日)
本日朝、地元堺市深井にある野々宮神社入り口で、
宮入する各村のだんじり(地車)を迎えていた。
すると、秘書の辻林君の携帯に中川昭一死去の知らせが入った。
その報告を受けた時、えー!という驚愕と共に、「しまったー!」と思った。
そして、何故、あの時彼に手紙を書かなかったのか、という痛恨の思いがこみ上げた。
また、七月の先の国会の終わりの頃、
本会議場で私の席まで話をしに来てくれた彼のことを思い出した。
あの時、何故もっと丁寧に話しの相手をしなかったのだろうか、と悔やんだ。
思えばこれが、中川昭一君との最後の会話になってしまった。
この度の選挙が終わってから、中川君はどうしているかなーと、
手紙を書こうと度々思っていて、
四、五日ほど前には、まさに手紙を書くところだったのだが、雑用に逐われて書けなかった。
だから、彼の訃報に接し、数日前に手紙を書いておけばよかったと、とっさに悔いたのだった。
「しまったー!」という思いは、ここからくる。
また、私が手紙において彼に伝えたかったのは、
この日本が日本で無くなるような国家の危機に際して、
共に皇室を守り日本再興、大和魂回復のためにがんばろうということであった。
我が国政界は、この日本再興の為のかけがえのない若き人材を失ったのだ。
かけがえのない同志を失ってしまった。
これらの思いが入り交じって、「しまったー!」という声にならない叫びがこみ上げたのだった。
次に、辻林君に、この度の総選挙において私の中川さんへの「激励ビラ」をもって、
堺から北海道帯広まで中川さんの選挙応援に行ってくれた同志に、
中川さん死去のことを知らせるよう指示した。
そして、秋祭りの野々宮神社を辞去した。
だんじりの宮入に際して、喪中のような気分でいることはふさわしくないからだ。

例のイタリアでのサミットにおける「酩酊記者会見」で中川さんが閣僚を辞任した後、
拉致被害者救出集会で彼と同席したときに彼に言った。
「僕のところにも、中川さんを励ましてください、という手紙が多く来るんですよ。
僕は、大賛成です、どうかみんなで中川さんを励ましましょう、と返事を書きましたよ。」
すると、中川さんは、本当にうれしそうな顔をした。その素直な笑顔が思い出された。
ひょっとすると、七月に本会議場で私の席まで来てくれたのは、この中川さん励ましの手紙が、
どのような暖かい反響をもたらしたのかという報告だったのかもしれない。

マスコミの執拗な報道に対する怒りが甦った。
彼のサミットにおける記者会見の報道は、誇張・偽装である。
彼の「酩酊」しているかの如き数秒の場面を連続して何十回となく繰り返して編集し、
これでもかこれでもかとマスコミは各家庭に流した。
これでは、全記者会見中、彼はこの「酩酊」した調子だったと印象付けられてしまう。
同じイタリアでの十二年前のサミットで、
「体調不良」の為、サミットの首脳会議を欠席した総理大臣がいた。
これに対して、中川大臣は、本来の任務である会議は立派にこなした。
日本のために実に立派にこなした。
その任務を終えた後の記者会見だけが「体調不良」だった(「酩酊」も「体調不良」の内だ)。
この点で中川大臣は、会議に出席できずに
何のためにサミットに行ったのか分からない社会党の総理大臣とは全く違う。
しかしマスコミは、「体調不良」で会議に出席できなかった総理大臣のことは何も言わず、
中川さんの出席した会議での功績と成果のことは無視して、
記者会見における「体調不良」だけを執拗に非難し続けた。
このことを考えると、急に、あの素直なナイーブな感性をもつ中川昭一さんが
かわいそうでかわいそうで仕方がなくなった。
彼の内面は、どれほどこのマスコミの報道の仕方で傷を負わされたか計り知れない。
マスコミは、社会党と社会党的なもの、左翼と左翼的なもの、の偽善は報道せず、
祖国日本に忠誠を誓い日本的なものに愛着を感じ、
それを保守しようとする魂を執拗に攻撃する。
中川昭一さんは、この攻撃対象になっていたのだ。
何故亡くなったのか、今の時点では分からない。
分かっているのは、このマスコミの攻撃のなかで中川昭一さんは亡くなったということだ。

五年ほど前か、私と飲んでいて、中川さんは亡父中川一郎氏のことを語り泣いたことがあった。
民社党の私の親分である春日一幸は、中川一郎を高く評価していて、
選挙になるといつも北海道の中川一郎の応援に行ったという話の後だった。
「僕の親父は自殺したんです」と言って彼は泣いたのだ。
 
中川さん、つらいときに、いつも心にあった父上と久しぶりに再会したんだ。
永遠の安らぎのなかで、親子ゆっくりと語り合ってください。
祖国日本の為に殉じようとする魂をもった中川昭一さんのご冥福を心よりお祈りします。

http:// www.n-shingo.com/jijiback/455.html



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中川昭一氏の功績
農林水産大臣としてポジティブリストを導入し、
中国等から無差別に輸入される毒菜に一定の歯止めをかけた。

財務大臣として金融援助をIMFに一本化し、
韓国やアイスランドなどから申し込まれた二国間融資は全て断った。

政調会長として、自民党内の人権擁護法案推進派の意見を断固として撥ね付けていた。

拉致問題に早くから取り組んできた政治家の一人であり、拉致議連の会長もつとめた。

経済産業大臣の時、親中派の二階俊博が打ち出した「東アジアEPA(経済連携協定)」構想に意義を唱えた。

毎年靖国神社に参拝。

非核三原則の堅持は当然”としながらも
日本の核武装の是非について繰り返し“論議すべし”と言及した。

日教組に対し
「日教組の一部活動家は(教育基本法改正反対の)デモで騒音をまき散らしている」
「(デモという)下品なやり方では生徒たちに先生と呼ばれる資格はない。免許剥奪だ」と、その活動を強く批判している。

官憲(役人、特に警察関係)による慰安婦募集の強制性を認めた
1993年の「河野談話について早期に見直しを検討・すべきだとの考えを示した。

中国の脅威に対抗するために、インドやオーストラリアとの連携を促進するための議員連盟
「価値観外交を推進する議員の会」の旗揚げに貢献した。

勉強熱心で官僚にとっては渡した原稿をそのまま読んでくれない、扱いにくい大臣だった。

郵政解散後の造反組リーダーであった平沼赳夫とは銀行員時代から兄弟のような間柄で、
郵政民営化には賛成ながらも、造反組には半ば同情的だった。

政界きっての親台派として知られている。
農水大臣再登板の際には、中華民国総統であった李登輝から祝意が寄せられている。
今回の辞任についても、台湾メディアは同情的である。

2007年に保守派の議員で集まる勉強会「真・保守政策研究会」を設立するにあたっての
まとめ役となった。
ご冥福をお祈りします
(2009年10月)



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皇族の芸能人化について

大阪国体に天皇陛下と皇后陛下が来られた際、
ロイヤルホテルで各都道府県の国体参加者が出席してパーティーが開かれた。
参加者は、ほとんどトレーニングパンツにシャツのいでたちで、
ビールやウイスキーを飲んでざわついていた。
そこに、天皇皇后両陛下が入ってこられた。
参加者の多くは、アルコールが入っていて1メートルくらいの至近距離で
両陛下をパチパチとカメラで写してお迎えしていた。
なんと無礼なことだと思ってしばらくいると、今度は場内マイクで、
両陛下が各テーブルを回られますのでよろしくお願いしますとの放送があった。
ここにいたって私は、衆議院の委員会で、
各地方を回られる天皇陛下を酒席を回るタレント並みに扱っているこの現状に
義憤を感じて問題を提起しようと決めたのだ。
そして、宮内庁に質問通告をすると、早速職員数名が部屋にやってきて、
「そのような、天皇陛下に各テーブルを回っていただくようなことは絶対にやっていません」と粘り強く繰り返し始めた。
「いや、君達は大阪に行っていないではないか。
僕はまさに大阪で天皇陛下がテーブルを回られるのを見たのだ」と言っても、
「そんなことは、ありません。どうか、質問しないでください」の一点張りであった。

翌日の質問日当日は朝から5名ほどの宮内庁職員が私を取り囲み、
自室から質問する委員会室まで、国会の廊下で団子になってついて来て
「そんなことはありません。そんなことはありえません。
陛下の随行者は県警本部長出身です。彼を信じてください。質問しないでください」と繰り返すのである。
この目で見たという私の言うことを、その場にいない者が、ひたすら否定する。
平気で、白を黒と言い換える異様な人間の集団だと思った。

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皇室と創価
皇后様の五反田のご実家の取り壊しを皇后陛下が望んでいらしと宮内庁が発表したが、
創価の宮内庁官僚が勝手に推し量ったという形で公表した

  • 最終更新:2017-04-23 11:55:57

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