袞竜の袖に隠れる「竹田論文」大批判

WILL-2008年8月号
袞竜の袖に隠れる「竹田論文」大批判
久保紘之 ジャーナリスト
 ※「袞竜(こんりょう)の袖に隠れる」:天子の威徳の下に隠れて自分勝手なことをすること。

熊本に、「呼ばれもせんのに加藤清正」という言葉があるそうです。
むかし、松野頼三(故人、元自民党長老)に聞いた話だから、今でもそんな言葉が熊本に残っているかどうかは知りません。
ともあれ、松野によると宴会であれ講演であれ、どこかで加藤清正の話にふれないと皆は納得しない。
芝居小屋で地方巡業の忠臣蔵を観ていたら、吉良上野介の後ろに、いつの間にか、この加藤清正が怖い顔をして立っているのだそうです。
『WiLL』5月、6月号に掲載された西尾幹二氏の皇室論に対する竹田恒や素氏の駁論(同8月号)に、あれこれ口を差し挟むのは、
なんとなくこの「呼ばれもせん加藤清正」が思い出されて、あまり気乗りがしません。
本格的にこの論争を(といっても、まだ論争が成立するかどうかもわからないのだけれども)、
批判的に検証したいのなら、素人の僕ごときがしゃしゃり出る幕ではない。
もっと語るべき資格のある専門家にお願いしたほうがいいでしょう。

では、なぜ書く気になったか?
それは今号の「蒟蒻問答」で冒頭ちょっと触れたように、竹田論文に次のような看過できない下りがあったからです。
かい摘まんで言うと、いやしくも保守たるもの、
「本当に皇室のことを心から憂いているのなら、両陛下には直接諫言を申し上げながらも、
雑誌では(ということはスキャンダル好きの無知な民草どもには)、
只管(ひたすら)皇室を擁護しつつ《如何なる困難があっても皇室は大丈夫》と発言するべきではないか。
これこそが本当の保守論壇の責任ある発言者の立場であると私は考える。たとえば、私の知る皇室の一方(ひとかた)は、(略)
非難される発言はただの一度たりともない。保守論者はそのような振る舞いを心に刻むべきだ」と竹田氏は宣うわけです。
驚いたことに、ここではいつの間にか皇室の一方の言動が、西尾氏のみにとどまらず日本の保守論者・論壇の見習うべき模範として指し示されている。
つまり、保守たるもの、すべからく皇室の藩屏たれ!醜(しこ)の御楯(みたて)たれ!というわけです。
冗談じゃない。明治天皇の曾孫の子息か何か知らないが、的屋を仕切る地割師じゃあるまいし、
いつからだれの許しを受けて「保守」を仕切るようになったのかい? と、ケツを捲って啖呵の一つも切ってみたくなるではありませんか。

「保守」の意味
そもそも竹田氏が西尾論文を駁して、「保守派を装った保守派でない論者」と決め付け、
「保守の立場から正しい反論をしておく必要がある」と言っていることからして、僕には引っ掛かります。
高飛車な物言いをしているからということではなく、竹田氏が「保守」という場合の「保守」とは、
どういう保守を意味しているのだろう?という素朴な疑問からであります。
常識的に言って、普通一般の生活態度の中で日常的に使われる「保守」というのは、理論でもイデオロギーでもなく気分の問題でしょう。
三島由紀夫は『林房雄論』の中で「右翼とは、思想ではなくて、純粋に心情の問題である」といいました。
気分も心情も内実はともあれ、そう大差はないでしょう。
ちなみに、左翼とか右翼という言葉は、元をただせばフランス革命後の議会で急進派のジャコバンが議長の左方の議席を占め、
保守派が右方に座ったことに由来するだけの話です。
その後、ジャコバンの系譜の社会主義・共産主義が左翼と呼ばれ、民族主義・国家主義が右翼となった。とすれば、保守派と右翼とはほぼ同義語になるはず。
ところが、遅れて近代化を進めざるをえなかった日本では、そうはならない。
「わがくにでは保守派はリベラルであって、それが政治の実権を握り、それを挟んで左右両翼という構図が生まれた」と、
評論家の松本健一氏が指摘しています。
ともあれ、普通一般の生活態度に見られる気分としての「保守」は、それまでの歴史に醸成された伝統というものを根っこに据えた、
したたかな保守(自然的保守“主義”)です。
ちなみに、天皇制という呼称も、確かコミンテルンの27テーゼか、その前後かに、
〈モナーキー〉の訳語として日本共産党が初めて使い始めたものだと記憶します。

さまざまな「保守」
さて、話を「保守」という問題に戻しましょう
松本さんの指摘するとおり、日本では近代化論者であるリベラルが「保守」を名乗って支配階級の中枢の位置を占め、
明治国家体制の近代化路線を推し進め、その左右に、「階級」の立場から近代化路線に反対する左翼と、
「民族」の立場からそれに反対する右翼という構図が出来上がっていました。
また保守や右翼が根底に据える「伝統」に関しても、天皇に軸足を置くか、民族に拠ってか、で、それぞれ伝統の内実も変わってきます。
一方、「保守」の呼称もさまざまで、先の大戦を基準にとれば、戦前への回帰を目指した「復古的保守」、これを保守反動と読んだりもしますし、
それらと区別する意味で、「進歩的保守」、「リベラル保守」、「新保守」など、いろいろな名称で呼ばれていました。
復古的保守について、共産党など左翼は岸信介をその中心的存在とみなしていましたが、
岸は東条英機内閣のときナチ・ドイツの統制経済を学んできたように、革新官僚の代表的な存在で、
北一輝、中野正剛などとは別の形で合理ファッショの系譜に位置付けるものもいます。
逆に、北一輝を戦後の象徴天皇制と戦後憲法体制のイデオロギーを先取りしていた人物という見方だってあるのです。
伝統的権威としての天皇観を揺るぎなくもっていたという点では、吉田茂は「伝統的保守」の
象徴的存在と言えるでしょうし、さらに吉田の伝統的権威としての天皇観に対して、
中曾根康弘を戦後の象徴天皇のイデオロギー的担い手とする見解もあります。
以上、こういった大雑把な概念整理を踏まえた上で、さて、竹田氏の使っている
「保守」とは一体どの辺りに位置付けられるものなのでしょうかねぇ?

西尾論文の「廃棄」
竹田氏が、冒頭に紹介したように西尾氏を「保守派を装った保守派でない論者」と断じる理由は、西尾論文の次のくだり、
「この私も(中略)天皇制度の廃棄に賛成するかもしれない」という、竹田氏の言葉を引用すれば
「驚天動地の結論に、怒りよりも哀しさ、戸惑いを覚えた」からだといいます。
実は、僕もまた、西尾論文を読んだとき、竹田氏とは別の意味で、これは凄い言葉だなと思いました。
それは、昭和天皇に関して誹謗としかいいようのない暴言を吐いた北一輝のことが、二重写しのようにだぶって見えたからです。
「くらげの研究者(=昭和天皇のこと)の責任ですよ。君らのいう国防の不安も、政治化の民主主義も、皆そこに原因があるんですよ。・・(略)
何も彼も天皇の権利だ、御宝だ、彼も是も皆天皇帰一だってところへ持って行く。
そうすると帰一の結果は、天皇がデグノボーだということになる。それからさ、ガラガラッと崩れるのは」
これは、橋川文三の『昭和維新試論』(朝日新聞社)に紹介されている寺田稲次郎(『革命児・北一輝の逆手戦法』)の話ですが、
北一輝は、熱烈な待望を昭和天皇に寄せている二・二六事件の青年将校たちと違って
実在の天皇に必ずしも大きな期待を寄せていなかった、と橋川はさらりと解説しています。
 北一輝研究では恐らくこの人が一番だろうな、と僕が思っている松本健一氏の説はこうです。
「(万世一系神話に呪縛されている)皇道派青年将校の起こした昭和維新は、天皇を戴いて、その大御心を顕現させることであった。 
これに対して、北の想定した革命は天皇を手段として用い、そのあとで大御心に北の改造法案を認めさせようとした。
皇道派将校の目的としたのは維新(王政復古を唱えた明治維新の完成)であり、北の目指した革命とは、似ているようで対極にある」
だからこそ、二・二六事件のとき、「朕自ら近衛師団を率いて討伐せん」といわれた昭和天皇の真意を察知して、
動揺の走った皇道派の青年将校たちに対し、北は極めて醒めた位置から、自らの描く革命成就に向かって叱咤激励できたわけです。
天皇について、日本人は保守も右翼もそれぞれ勝手な思い入れ、それを片想いというか恋闕(れんけつ)の心情というかはともあれ、
夢中に夢を描いては裏切られたという焦燥感に苛まれてきました。
二・二六事件に加わった青年将校たち、たとえば磯部浅一などは、その最後のぎりぎりのところで、
つまり死刑にされる直前、同じ監房で西田税が「われわれも天皇陛下万歳を叫びますかね」と問いかけると、北一輝は「わたしはやめておきましょう」といい、
その言葉に、ハナから天皇を国家の一機関(美濃部達吉)に過ぎないと思っている北一輝とはまたそれぞれ別の思いからでしょうが、
西田も磯部も従ったのでした。
松本氏が書いているように、このぎりぎりのところで「天皇陛下万歳」を叫ぶか、それとも北一輝のように「わたしはやめておきましょう」というか、
つまり最後の最後のところで「錦旗」を選ぶか「日の丸」を選ぶのかを考え詰めなければならないし、
そこでしか民族の根っこ、民族的アイデンティティは主張できないというのが、右翼に突き付けた松本さんの問題提起であったわけです
(『右翼・ナショナリズム伝説』河出書房新社)。
西尾論文の「廃棄」発言もまた、まさにそのギリギリのところでの「戦後保守」、つまり先程挙げたさまざまな保守モデルのなかの、
あの未曾有の戦争体験を踏まえた保守という意味での「戦後保守」たるものの心構えをもって、
後者、つまり「日の丸」(民族の伝統)の方を選ぶという選択肢、選択の方向を指し示したのだと僕は考えるのです。
凄い言葉だな、と思ったのはそういう意味合いからであります。

天皇批判=反日左翼?
竹田氏は、「廃棄」とは廃棄物を処理する言葉で、それをこともあろうに天皇制に関して使うとはけしからん、と、
まず西尾氏の言葉遣いを咎めているようです。
廃棄という言葉が良いか、悪いか、なんていう話を聞くと、僕などは昔、日米安保条約の「廃棄か廃絶か」をめぐる
共産党と社会党との言葉選び論争を思い出しますが、保守たるもの伝統に根差す言葉遣いにこだわるべきだというのは、まあ、その通りでしょう。
竹田氏の言い分は、第一に西尾氏の廃棄発言に至った判断の根拠は、あやふやな情報とそれを前提とした勝手な憶測や妄想である、という。
これは後にふれることにしますが、いずれにしろ、竹田氏の怒りの比重は、どんな根拠があろうが無かろうが「天皇を廃棄する保守」などというのは、
とんでもない「不敬の極み」の言説、保守の皮を被った「反日左翼」だと、問答無用に切り捨てるところにあるといっていいでしょう。
しかし、そのお説だと北一輝という存在は一体、どうなるのです?彼も「反日左翼」なんでしょうかねぇ。
まさか、右翼だからいい、ということにはなりますまいに。
なるほど、二年前に日経新聞がスクープした例の『富田メモ』などには、北一輝のような人物に対して昭和天皇は極めて不快感を示された、となっています。
『昭和天皇独白録』(文藝春秋)にも、確かそれに似た記述がありました。
しかし、右翼勢力の中で北一輝「反日左翼」呼ばわりしたなどという話は、寡聞にして僕は知りません。
それどころか、北一輝は多くの右翼にとって、今も変わりなく教祖的な存在であります。

伝統的右翼の言い分
ここで興味深いのは、西尾論文をクソミソにいう竹田氏の立脚点は「どのようなかたちであれ皇室批判はすべきでない」という伝統的右翼の言い分と、
ほぼパラレルだということです。
例えば、先に紹介した松本氏の著書によると、松本氏は「現在(1990年代)の皇室の危機の本質は、
皇室が戦後民主主義の落とし子の形態になってしまっていること。戦後日本に与えられたアメリカ型の民主主義によって皇室が形づくられていることにある、
という点について、諫言を呈すべきだ」という立場から精力的に論文を発表してきました。

その中の一つに、こうあります。「平成の天皇・皇后は(略)、天皇制の無為無私の理想と遠いところにいると思います。
個人としての好悪の情も比較的はっきり表明する。
天皇がまだ学習院の学生だった皇太子時代には『×××さんは民族主義的でいやな政治家だ』とか
『○○の書くものは嫌いだ』とかの発言をしたと報道されているし、
最近も京都御所で『なぜ、私たちまで靴やハイヒールを脱がなければならないのか。脱ぎたくない』と言ったと伝えられた」
文中、×××とあるのは中曾根康弘元首相、○○とあるのは三島由紀夫だという。
『月刊Asahi』に掲載されたものだが、松本氏が正確に実名を書いていたのに、発行元の朝日新聞社が自主規制して実名を伏したのだと、
松本氏は後に説明しています。
松本氏が右翼団体から「筆誅」を加えられたのは、そうした一連の文筆活動のなかでですが、そこにはこうありました。
「諫争文というポーズをとっているが、ちょっと気をつけて読めば、その反対の立場から、何らかの意図をもってつくり出された噂話、
流言飛語などをつづり合わせて御皇室を詆辱(ていじょく)(そしり、はずかしめる)しまつろうとする舞文であることは、歴然たるものがある」
竹田さん、あなたの西尾攻撃の言葉遣いと、よく似ていると思いませんか?

右翼が賊軍に
もう一例、挙げて置きましょう。
それは、平成元年1月9日の「即位後朝見の儀」における今上天皇の「皆さんとともに
日本国憲法を守り・・・」という、〈お言葉〉に纏わる話です。
当時、『文藝春秋』(昭和天皇特集号)の徹底討論で、西部邁、村松剛の二人がそれぞれ
①「日本国の憲法」という(表現)ならいいが、「日本国憲法を守り」では新憲法が玉座に座った感じ(村松)
②朝見の儀のお言葉は「平和」や「民主」についてもふれており、戦後進歩派と闘ってきた人は、
天皇を批判することも覚悟することによってしか、戦後進歩主義、民主主義に対しての批判を継続できなくなるかもしれない(西部)
と強い懸念を表明していました。
その心配どおり、まだ朝見の儀のお言葉の余韻の消えやらぬ平成元年2月3日付『朝日ジャーナル』(「風紋」)は次のように書いたのです。
「問題は『憲法を守り』という表現を『護憲』と積極的に解釈できるのかどうか、もうひとつは『お言葉』が明仁天皇の肉声なのかどうかだ。
……『皇太子明仁』の著者・牛島秀彦氏は『肉声』と断定する。
その根拠は皇太子時代、『新憲法を死守する』と口癖のように語っておられたからだという」
こうしたトーンは朝日新聞本紙でも、刺し貫かれていたのです。例えば平成元年1月27日付「社説」は、
政府の大葬の礼の運営が憲法の「政教分離の原則」に反対する疑いを指摘する中で、
わざわざこの新天皇の誓いを引き合い出して、自らの主張を展開したのです。
『朝日ジャーナル』で指摘された牛島発言のうち、今上天皇の「即位後朝見の儀」の憲法発言が「肉声かどうか」という点については、
当然、事前に文案を宮内庁なり竹下登内閣なりが検討する筈だから、問題は最終過程でどの程度、今上天皇のご意思が書き加えられたか、でしょう。
海部内閣時代の平成2年5月、韓国大統領・盧泰愚来日の折の天皇の〈お言葉〉をめぐって、政府首脳部が最も警戒しかつ恐れたのは、
今上天皇が、せっかく事前に事務方が練りに練った〈お言葉〉以外、何かアドリブで付け加えられるのではないかということだった、
という官邸筋の情報がありました。
いまや、「錦旗」は朝日新聞をはじめ戦後“護憲・平和主義者”たちの側にはためき、
一方、憲法改正を叫んできた戦後保守派や右翼は賊軍に貶められたという次第です。
さて、こうした幾つかの例でわかるとおり、今上天皇の「即位後朝見の儀」における憲法発言には、
皇太子時代の「皇室の危機の本質たる戦後民主主義の落とし子の形態」を裏付ける数々の言動が、
前段症状としてヴァイニング夫人に「ジミー」と呼ばれていたご幼少の頃から、長い年月を掛けて病魔のごとく蓄積されて来たことがわかるでしょう。
そういう文脈でみる限り、親から子へ、つまり今上天皇から皇太子へと皇室危機の病魔は伝染され、より深化しつつあると言えるでしょう。
それらの経緯を丸ごと踏まえたパースペクティブのうえで、あの西尾発言は発せられた、と西尾論文を読みながら、
少なくとも僕は抵抗なく、すんなりと理解できました。
平成日本の政治社会状況は、竹田氏の言うように、スキャンダラスな皇室情報が大衆に流れる通路さえ遮断すれば、
多数者の専制・衆愚政治の矛先が天皇制の存否に及ぶような危険性はない、大丈夫だと言い切れるような能天気ものの通用する事態ではない、と僕は思います。
もちろん、僕の皇室観は西尾幹二氏と完全に重なるというわけにはまいりません。
しかし、皇室危機の認識において、僕は西尾氏の思いを「徹底して理解しえた」と思っています。
ところで、「保守」の仕切り人を自任される竹田氏は、これでもなお「そんな情報はゴシップに等しく、何の根拠もない。
ただ只管皇室を擁護して、(スキャンダル好きの民草どもには)皇室は大丈夫と発言するのが、
本当の保守論壇の責任ある発言者の立場である」と強弁されるおつもりか?
詰まるところ、それは「平成の錦旗」をおっ立てた朝日新聞をはじめ「戦後“護憲・平和主義者”たち」の策謀に加担する、後押しする、
あるいは術中に陥るということではないのですか?それで、どうして「保守の立場からの正しい反論」が可能なのか?ぜひ存念の程を伺いたいものです。

竹田論文の嫌な感じ
僕が竹田論文を一読して、危ういな、というか、嫌な感じだな、と思ったのは、
《簾の後ろの、それとは名指しし難く、目に見えぬ、ただならぬ力の存在》をバック、
後ろ盾としたものたちの圧迫感を、漠然と(今の段階ではそう表現する以外にないのですが)感じたからなのです。
恐らく、竹田論文を支える裾野は、明治天皇の曾孫にあたり元皇族、つまり戦後皇籍離脱するまではれっきとした宮家の家柄という父、
竹田恆和・JOC(日本オリンピック委員会)会長の子息となれば、かなりな広がりをもつものなのでしょう。
いま彼らによって「仕切られつつある保守」とは何か?
これは、恐らくアメリカにおけるネオコンの台頭やブッシュのイラク攻撃への賛否を踏み絵に、
日本の保守が親米保守か反米かに仕切られたのと恐らく同じパターンで、ストロング・チャイナの台頭と、韓国、北朝鮮などの領土領海侵犯、
日本人拉致、歴史見直し・靖国参拝問題など日本の弱腰外交に苛立った復古・反動保守派による保守内部のイデオロギー純化路線が、
新たな装いを凝らして始まった、と押さえておくべきでしょう。
その意味では、時間の後先はともかく、因果関係としては竹田的流れが先にあって、西尾論文はその噴出口を準備したともいえるのではないか、と思います。
竹田論文で僕が嫌な感じだな、と思うことの一つに、論法の狡猾な手口があります。
例えば、西尾論文の挙げる事実関係を根拠がない、あやふやな情報などとこき下ろしながら、自らは手の内を明かさない。
つまり、相手の情報を「嘘だ」と決め付けるためには、自らはこれが真実だと胸を張って示せる、
いわば真の情報を手元にもっていなければならないはずです。

皇太子の「情報の窓」
ところが、竹田氏が振りかざすのは元皇室とかご学友とかの、要するに皇室との距離の近さ、
「皇室の内側」に通じているというイメージを暗に印象付けることで、それを仄めかしつつ、
他を差異化、あるいは排除する手段に用いて、復古・反動保守派の新たな磁場を型造ろうというわけです。
いわば新たな藩屏、インサイダーグループの結成。もちろん、そこには旧皇族・華族復活の宿願と策謀が働いているのでしょう。
それは、いわば皇室の内側だけに通用する昔の公家言葉(官僚用語はそれを見習ったものでしょうが)による情報の独占です。
例えば、竹田氏は西尾論文に対して「反論することができない天皇・皇太子を批判するのは卑怯」と決め付けています。
しかし、それを言う竹田氏の位置は「内側」に、つまり後光を一身に浴びながら、
言い換えれば「反論することができない天皇・皇太子」代理人を気取って、ということは貴い人たちの立場を勝手に利用あるいは情報を操作して、
西尾幹二氏のような論敵を攻撃する。
これを「袞竜の袖に隠れる」というのです。
これは戦前からある天皇取り巻き連中の常套手段であります。例えば、天皇に取り入った君側の奸。
元老然り、統帥権を好き勝手に利用した軍部、皆そうです。
ヴァイニング夫人は「皇太子の窓」と自らを称したそうですが、かれらはいまそれに成り代わって
今上天皇および皇太子の「情報の窓」を独占しようというわけです。外の者がその窓から
情報―これはきれいごとではなく大衆の生の声を伝えようとすれば、「反論できない天皇・皇太子」に成り代わって、
「卑怯者」と容赦なく非難の言葉を浴びせようという魂胆なのかもしれません。
現に、西尾氏に対する竹田氏のもの言いからは、そういう恐れを十分感じさせます。
まさか、とは思いますが、もし本気でネット社会の今日、そんなことが可能だと考えているとすれば、
これは救い難いアナクロニズむだと言わざるをえないでしょう。
竹田氏は、また無遠慮にも「親王のご誕生を一人の女性の求めることになってしまった現行制度の欠陥」をあげつらい、
「皇室典範を改正し、一定の皇族を確保することが目下必要」と言い放っています。
正論だと僕も思うが、上記のような経歴をもつ竹田氏本人が、
自らぬけぬけと我田引水という批判などクソ食らえ、とばかりに言うべき事柄ではないのではないか?

歴史的事実を見よ
竹田論文を一読でいて何よりも僕が驚いたのは、この人はそうしたごく常識的な歴史感覚、
つまり昭和天皇が、あるいは皇室が昭和前史の中でどういう悲劇的な結末を迎えたかという、
もっとも肝心要な点についての想像力が欠落しているように見受けられることです。
先程例示したように、「保守」にはさまざまな呼び名がある。しかし、「戦後保守」たるためには、
少なくとも明治・大正・昭和の三代にわたる「天皇の世紀」がもたらした栄光と挫折。
それは結果として皇室のみならず日本民族、アジアの同胞を含め数千万人の死と無残な国家の崩壊をもたらした、
そうした歴史的事実を保守思想の根底に見据えたものでなければならないのです。
そのうえで、共産党員崩れの読売新聞のナベツネの如く、それらを歴史的検証、科学的検証に付するなどと舞い上がらずに、
それを敢えてマルカッコにくるんで、その上で苦渋に満ちて「だがしかし、皇室は日本人にとって必要不可欠であり、
天皇の戦争責任はあってはならないこと(だから)、昭和天皇に戦争責任はない」と言い切るのが、
戦後保守の心情、あるいは情念であると僕は思っているのです。
吉田茂は「私の皇室観」(『回想十年』所収)の中で、戦前戦中を回顧して、
皇室について「日本の国情、将来永きに亙って戦前の如く独り至尊をして社稷を憂えすむることをなからしめたい」と言いました。
これが未曾有の大戦による惨禍を通過した戦後の伝統的保守主義者の心構えです。
つまり、戦前の軍部の独走を政治が止められず、ひとり天皇陛下のみが国家の行く末に心を痛めていたような事態は二度と起こすまいというのが、
戦後の出発点における保守政治の最高リーダーの自戒だったのです。ここで明確にされているのは「政治の主体性」ということです。
 まかり間違っても、竹田氏の言う如く、保守はひたすら「天皇を守り」「如何なる困難があろうとも皇室は大丈夫」などと言うような
没政治的、没主体的な言説は戦後保守の精神とは無縁のものだ、と僕は思います。

皇室尊崇が人倫の義
たとえば、『昭和天皇独白録』を読むと、昭和天皇が敗戦後の身の上について、いかにビクビクとしていたかが痛々しいほど伝わってきます。
何しろ、本来なら醜の御楯や藩屏となるべき忠臣たちは、腹の据わったものはどんどん自決し、
腹の据わらぬ奴らは我が身可愛さに天皇に責任が及ぶような発言をやたらやりだす始末ですから。
そのとき竹田宮は、一体、何をしていたんでしょうかねえ?
吉田は「私の皇室観」の中で「皇室を尊崇するのが人倫の義であり、社会秩序の基礎となりきったのである。
故にわが国における民族主義も、この観念、精神を基礎とせねばならない」と書いています。
しかし、吉田は伝統的権威としての天皇観は語っても「明治天皇下の天皇」の復活には一貫して反対していました。
まかり間違っても、戦後は天皇を再び君側の奸や袞竜の袖に隠れる類いの好き勝手にさせてはならない、という政治の主体的立場を鮮明にした。
「戦前の如く『独り至尊をして社稷を憂えしむる』ことをなからしめたい」という言葉に、その気持ちがよく現れています。 
西尾論文も、まさにそういうスタンスで皇太子殿下ご夫妻の言動、およびそれを甘やかしているかにみえる天皇皇后、宮内庁の姿勢を危ぶんでおられる。
なぜなら、戦後憲法のもとで多数者の専制が国民主権を振りかざして暴走すれば、多数決で天皇の廃絶が可能となるという事態が生じてくる危険性は十分ある。
つまり、北一輝が不遜にも「デグノボーということになれば、それからさ、ガラガラッと崩れるのは」と言い放った事態は、
戦後マッカーサー憲法のもとでは、ただの夢想ではなく十分リアリティがあるわけです。

天皇制というシステム
さて、そこで西尾論文の位置関係を、僕なりに測定してみることにしましょう。
再び、天皇家が吉田茂の心配したような戦前回帰への道筋とは別の形で、
つまり西尾氏の危惧するような「好ましからざる反伝統主義者に乗っ取られ」て、おかしなところへもって行かれるなら、
しかも、その事態に対して天皇あるいは皇太子がほとんど無自覚に近く、北一輝の言葉どおり、
「デグノボーということになれば、それからさ、ガラガラッと崩れるのは」という最悪のシナリオを西尾氏が予期して警鐘を鳴らすのは、
「戦後保守」として当然の務めだと僕は考えます。
問題は、竹田氏が口を極めて非難する西尾論文の結論部分、「皇室がそうなった暁には、この私も中核から崩れ始めた国家の危機を取り除くために
天皇制度の廃棄に賛成するかもしれない」という、テンションの高い思い詰めた言説について、であります。
これは保守主義者の言葉遣いとは違うと竹田氏が考えるのは、ある意味でしようがないかな、と僕も思います。
たとえば、松本健一氏は「天皇制というシステムを保持し、使いこなそうというところに国民的伝統をみる」という論理で、
吉田茂が象徴する「戦後保守」政治の主体性=主権在民論を肯定しました。
松本氏は、その考え方は坂口安吾が敗戦直後に書いた『堕落論』で展開した天皇制に対する考察にかなり近い、と言っています。
「私は天皇制について、極めて日本的な(あるいは独創的な)政治的作品を見る。
天皇制は天皇によって生み出されたものではない。(天皇じしんは『何もしておら』ない無為の存在で)
結局、常に政治的理由によってその存立を認められてきた。政治家達は嗅覚で日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見した」(『堕落論』)
つまり、天皇という「無為の存在」を国家支配の手段として使うのが政治家である、と坂口安吾は戦後の始まりにあたって喝破したというわけです。
では、天皇を手段として使う以上、役に立たなくなれば捨ててしまうという考え方も、論理的に成立するということになるのか? 
そう簡単なものではないでしょう。西尾氏も「私は天皇制を手段とは考えない」といっています。

「無の場所」の崩壊
では前提条件を付けているにせよ、「中核から崩れ始めた国家の危機を取り除くために天皇制度の廃棄に賛成するかもしれない」というきわどい言葉遣いを、
なぜする必要があったのか?
僕なりに解釈すれば、まず「中核から崩れ始めた」とは、天皇が「無為の中心」から外へ、つまり世俗権力の領域に一歩踏み出すという意味だと思います。
先に紹介した今上天皇の即位後朝見の儀における、現行憲法遵守と受け取られかねないお言葉は、
今上天皇が西田幾多郎のいう「無の場所」から世俗権力の側へと一歩踏み出されてしまった、
ということなのです。その結果、「無の場所」の一角に風穴が開き、天皇の「無為の中心」の原理の崩壊が始まった。
西尾氏は、皇太子・雅子両殿下の週刊誌ネタとなりそうな言動の多くも、
その「無為の中心」という天皇原理の破壊を助長している、と危ぶんでいるのでしょう。
竹田氏は西尾論文の挙げる事実関係は根拠がないあやふやな情報で、英国のゴシップ誌のごときものだとこきおろしていますが、
大衆の破壊のエネルギーはデマであろうが関係ありません。
ダイアナ妃の離婚劇とその死をめぐるイギリス王室のスキャンダルを危機的状況に追い込んでいく大衆のエネルギーは、
主にゴシップ記事が原動力になっていたではありませんか。
いずれにせよ、英王室と同様に、戦後の「開かれた皇室」は大衆のルサンチマンから発するゴシップの洗礼を免れる術はありません。
問題の核心は、あくまで「無為の中心」という天皇原理=日本文化・伝統の崩壊の方にあります。
竹田氏の情報の厳密性へのこだわりは“木を見て森を見ない”という謗りを免れますまい。
平成という時代は、この天皇原理=日本文化・伝統の「内からの崩壊」と、国際化という外圧の横波による「外からの崩壊」という、
危機の挟み撃ち状況に立たされているわけです。

論争のための共通の《場》
悲観的な話が延々と続いたが、最後に、では天皇構造は将来消えてなくなるのか?と問われれば、
僕は右翼論客の大御所的な存在であった故葦津珍彦(皇學館大学教授)の口ぶりを真似て
「如何なる困難があっても大丈夫、皇紀2668年の長きにわたって皇室は見事に乗り越えてきた。これからも」と、明るく楽天的に答えることにしています。
竹田論文を読むと、何ヵ所かにこの葦津の論文の引用が見られました。
竹田氏は葦津さんを尊敬されているんだなあ、という感じが伝わってきます。 
かつて、雑誌『思想の科学』などで竹内好と天皇論争を繰り返してきた民族派の論客・葦津珍彦は「近代天皇論の系譜」(『Voice』昭和61年5月号)で、
この竹内の「一木一草」論を回顧しながら、「故人と私とはその理想とし希望とするところが最後まで一致しなかったが、
相手を《理解》し得たと思っている・・・。彼は民族としての日本人の文化のあらゆる点に天皇意識が、いかに根づよく浸透しきっていたかを、
徹底して《理解》した」と述懐しています。
僕は当時、サンケイ新聞論説欄に設けられていたコラム「評の評」でこの葦津の論文について「いまの論壇に欠けているのは、
こうした思想的立場を異にしたもの同士の論争のための共通の《場》だろう」と評したら、丁重な手紙を戴き恐縮した記憶があります。
竹田さんが葦津を尊敬しているならこの葦津の「思想をする姿勢」をこそ学ぶべきでしょう。
竹田論文の最後部の西尾幹二氏に対する読むに耐えない罵詈雑言の意図が那辺にあるのか知らないが、
これでは論争のための共通の場はうまれようがないでしょう。

  • 最終更新:2017-01-05 21:29:21

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