美智子さま 何度もママ友に“おわびの電話”

美智子さま 何度もママ友に“おわびの電話”〈週刊朝日〉
dot. 9月18日(木)11時34分配信
皇后・美智子さまは今年10月で80歳、傘寿を迎えられる。
同い年の皇室ジャーナリスト、渡辺みどりさん(80)が、心温まる美智子さまのエピソードを書き下ろした。

世紀のご成婚から5年。美智子さまは昭和39(1964)年、東京オリンピックの年を迎えました。
美智子さまのこんな言葉が残っています。
「お正月、日の出を見るとき、窓ガラスが曇っていたので私がガラスに平仮名で『なるひと』と書きましたら
『なすのな、ルビーのる、ひよこのひ、とけいのと』と読んでいました」。

浩宮さまは同年4月13日、学習院幼稚園に入園しました。
体調を一時崩されたが、健康を回復された美智子さま。昭和40(65)年4月、3度目のご懐妊の発表がありました。
2年前に流産されて、ご体調が気遣われていただけに国民の喜びはひとしおでした。
美智子さまはご懐妊を知った時から浩宮さまに
「ナルちゃん、おにいちゃまになるのですから赤ちゃんを可愛がってね」とお話しになっていました。
下の子が生まれ、母親の愛情を奪われたと感じることがないように、とのご配慮でした。
ちょうどこのころ、皇太子殿下(今上陛下)と美智子さまから佐藤久東宮侍医長に宛てた特別な申し入れがありました。
ジャーナリストの奥野修司氏の著書『皇太子誕生』には、目崎鉱太宮内庁病院産婦人科医長が
皇太子ご夫妻の申し入れの中身を記したメモが紹介されています。

〈分娩(ぶんべい)はみせものでないから出来る丈(だけ)人を入室させたくない。この前は多すぎた。
御料病院であるが病院のものは御料のものでないから遠慮して頂いて小人数にしたい〉

この時点で病院はまだ決まっていませんでした。佐藤東宮侍医長は、ご出産は宮内庁病院でと申し出、
皇太子ご夫妻がそれを了承するかわりに、分娩室に入るスタッフの人数は少人数に制限していただきたい
と申し入れたのです。実は前回、昭和35(60)年2月、浩宮さまご出産のときは天皇家初の病院出産だったこともあり、
皇室や東大病院から大勢の人間が美智子さまのお産に立ち会っていました。
海外の王室でもマリー・アントワネットの出産など、お産をする立場の女性からは信じられないほど多くの人が立ち会った記録が残っています。
第2子出産の立ち会い医師の人数は、前回の半分以下という話にまとまりました。しかしそれでも10人余りで、その決定まで非常に時間がかかったのです。
振り返ってみると、浩宮さまご出産の折、美智子さまの歌の指導をしていた歌人五島美代子さんが、
入院直前まで美智子さまを励まされていました。初産におびえる美智子さまに五島さんは20年前に書かれた
ご自分のお産の手記をお見せして激励されたのです。「自然の波に乗るようにしてお身をお任せになりさえすれば
自然に苦痛は耐えられます」。難産を克服して17時間、産みの苦しみの中での浩宮さまの出産だったのです。
昭和40年11月、美智子さまは臨月に入られても歌会始の歌を仕上げておきたいので、と前のお産の時と同様、
五島さんをお呼びになり作歌に精進しておられました。
入院直前、こんなことがありました。美智子さまのご体調が少し悪く、白羽二重に赤を重ねたお寝間着で
横になっていらっしゃいました。「何か少し震えてしまいます」とのお言葉に、五島さんは励ましの思いを込めて、
「昔の武士が戦場に向かうときは一度、必ず震えがくるそうで、それを武者震いと申します。一度も震えないのは
根っからのバカなのだそうでございます。女のお産は武士が戦場に臨むのと同じでございますから、
せいぜい武者震いあそばして立派なお産をなさいませ」
そう申し上げると美智子さまは「根っからのバカ」というところで、ちょっとお笑いになり
落ち着かれたご様子でした。その後、美智子さまはお歌を一首お示しになり、
五島さんは「くれぐれも安心なさるように」と申しあげてお帰りになりました。

浩宮さまご出産時の美智子さまの難産を知らされていた東大病院の産科チーム。第2子誕生を前に、
帝王切開の準備も始めていました。昭和30年代の後半から昭和40年代にかけて、医学は日進月歩の時代。
産科麻酔、産後の母子同室など昭和30年代にはめずらしかったことも医学の飛躍的な進歩で実現できるようになったのです。
昭和40年11月29日、美智子さまは宮内庁病院に入院。夜になって、美智子さまは分娩室にお入りになりました。
そこで美智子さまはひかえめながらもはっきりと、「できるだけ人を少なくしてください」とおっしゃいました。
待機していた麻酔担当の山村秀夫医師が「ガスを吸入していただきますが、いいですか」と尋ねると、
美智子さまはうなずかれました。麻酔が効いている間、美智子さまは白い蝶が飛んでいる夢を見られたそうです。
30日午前0時22分、美智子さまは第2子をご出産になりました。天皇家初の麻酔による無痛分娩でした。
体重3千グラム、身長51センチ。浩宮さまと5歳9カ月離れた次男坊殿下・礼宮文仁親王の誕生です。

この時、立会人を務めた佐藤東宮侍医長は、流産を克服しての出産だけに喜びを抑えきれず体が震えたと当時をふり返っています。
生まれたばかりの礼宮さまは御静養室の美智子さまの傍らですやすやとお眠りになっていました。
細菌感染を防ぐため授乳時以外は新生児室で母子別室だった浩宮さまの時代から考えると画期的な進歩です。
赤ちゃんの純白の産着は美智子さまがご自身の手で縫い上げられたもの。
ふと美智子さまは、女官にお尋ねになりました。
「浩宮のときは苦しかったけれど、今回は全く苦しくなかったのはなぜでしょう」
山村医師は後日、御静養室を訪ねたさいに、こう説明したそうです。「麻酔をしたからです」。
続けて「産声だけはお聞かせしたいと思いましたので、痛みは取りながら意識は残るように麻酔をしました」
というと、美智子さまはにっこりとお笑いになったそうです。

美智子さまのたっぷり出る母乳を飲んですやすやと眠る礼宮さまは泣き声もむずかりようも男の子らしく活発でした。
美智子さまは「東宮のスサノオ」と言ってお笑いになったそうです。
成長するにつれて元気なわんぱく坊主に育った礼宮さまは学習院幼稚園で、
テレビではやった「タイガーマスクごっこ」をしてはお友達を泣かせていたというエピソードが残っています。
そのたびに美智子さまは我が子のために、ママ友に「ごめんあそばせ」とおわびの電話をおかけになりました。
電話を受けたママ友は「こどものことですから……」と恐縮したということです。
山村医師といえば昭和40年代、日経新書の『痛みの征服 麻酔科医の誕生』がベストセラーとして話題になり、
多くの人々やメディア関係者もこぞって読んだものでした。

東京都中央区日本橋浜町、隅田川の新大橋にほど近いところに山村病院があります。
日本の麻酔医学のパイオニア、院長の山村医師は現在94歳。生涯現役の病院長として、ご活躍されています。
ご出産以降も美智子さまと山村医師のご縁は長く、半世紀以上にわたるお付き合いをされています。
美智子さまの治療の折には山村医師はあわせて7回、麻酔を担当なさいました。
山村医師は美智子さまのお誕生日会にも招かれ楽しみにされています。
その日は、美智子さまが30分ほどピアノを演奏なさってから、部屋を移動してお祝いの会が始まります。
「人が多いもので、なかなかお話は出来ませんが、お元気そうな姿を拝見するだけでも十分です」(山村医師)
今年の5月、筆者が山村医師の病院に伺いました。書斎に通していただくと、美智子さまと一緒の写真や菊の紋の入った銀杯など思い出の品々がずらり。
お付き合いの長さと美智子さまのお心遣いを感じました。
※週刊朝日 2014年9月26日号
http:// zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140918-00000004-sasahi-peo

  • 最終更新:2017-06-10 11:17:05

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード