経緯補足 拾い物

不透明な入内経緯

拾い物1
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小和田雅子さんの入内経緯について
小和田雅子さんは昭和61年ごろ一度皇太子妃候補となった。
ただし、宮内庁が候補に挙げた事実はない。
外務省ルートからの候補。(恒氏の働きかけによるもの)
宮内庁内部では反対の声が上がった。当時の天皇陛下(昭和)も反対した。
チッソ社長の孫であること、複数の男性関係、家柄(3代前まで遡れない)が理由。
元警察庁長官だった後藤田副総理は「皇居に筵旗が立ってもいいのか!」発言。
(水俣病の被害者が皇居に押し寄せるという意味)
当時の宮内庁長官も大反対。
宮内庁長官が藤森氏に変わり、外務省一派が他の候補者を貶めて工作したといわれている。
たくさんのお妃候補がいたが、重荷、務まらないと自ら候補から外れていった方が多い。
あるいは外務省がケチをつけ、話が立ち消えになった方もいる。
最後には、小和田雅子さんと、Kさんしか残らなかった。
Kさんは家柄もよく、優秀な女性(もちろん雅子さん以上)だったが、
皇太子が容姿を理由にお断りしたと言われている。
残ったのが雅子さんのみという状況になり、
皇太子が「雅子さんではだめでしょうか」と粘着し、
皇太子の結婚がこれ以上遅れるのはいかがなものかと、宮内庁は渋々受け入れた。
福田赳夫氏は雅子さんが幼い頃から皇太子妃にと目をつけていたという説もある。
小和田恒氏は福田赳夫氏の秘書官だった。
もちろん、雅子さんが素晴らしかったからではない。
皇太子妃は身内(創価)から出すという野望の為である。
1984年皇太子がヨーロッパで小和田雅子さんと対面(旅行)したという噂もあるが
公式発表されている初顔合わせは、1986年10月18日 スペイン・エレナ王女歓迎の茶会
(出席予定名簿に名前は載っていなかったが急遽、手書きで書き加えて参加)
外務省のOBが語った情報によると、外務省の幹部の娘に、
エレナ王女レセプションに年頃の娘(皇太子と釣り合う)がいる者は連れてきてもよいという通達があった。
ほとんどの幹部が、年頃の娘がいる者も「うちには皇太子にお見せするような娘はいない」
と遠慮して連れて行かない中、小和田氏だけが長女の雅子さんを連れてきた。
帰宅後 雅子さんは祖母江頭寿々子さんに「浩宮さまっておえらいの?」と聞いた。
これは 婚約当時 雅子さんは野心がなかったというイメージを作るのに
格好のエピソードとして紹介された。

その後
1986年11月 日英協会のパーティ
パーティでは浩宮さまと2人きりになる最後まで雅子さんだけが残っていた。
1986年12月30日 東宮御所での内輪のお茶会に小和田一家が招かれる。
1987年01月 日英協会のパーティ
1987年04月 雅子さん外務省入省
1987年04月25日 高円宮邸で浩宮(当時)と歓談。雅子さんは午前1時まで帰らなかった。
※小和田優美子さんと高円宮妃久子様は知り合い
1987年10月24日 浩宮さま 賀陽氏(学友)と一緒に雅子さんを招く。
1987年12月~1988年 昭和天皇、他皇族、宮内庁から水俣病やその他の理由で反対される。
富田宮内庁長官の説得により浩宮さまは一旦あきらめる。
→雅子さんはお后候補からはずれる。
その頃、雅子さんはマスコミとのトラブルを起こす。
→雅子さんがマスコミに好戦的な態度をとっていたのは宮内庁にNGを出され、逆切れしていた時期
雅子さんが「皇室に嫁ぐ気はありません。」ときっぱり言ったのは
候補から外されたことをかぎつけられるのが嫌だったからと言われている。
1988年07月 雅子さん在外研修で英国へ
1988年09月 オックスフォード大学に国費留学
1989年01月 昭和天皇崩御
1989年02月 皇太子となった浩宮さま「雅子さんではだめですか?」発言
1990年06月 外務省留学から帰国(修士はとれず)北米局北米二課に配属
1990年06月 秋篠宮両殿下ご成婚
1992年08月16日 東京・五番町の柳谷謙介・元外務次官宅で再会。
(手引きは母優美子さん)
1992年10月03日 宮内庁の新浜鴨場でプロポーズ 外務省がセッティング
1992年11月28日 東宮仮御所で3度目のデート
東宮家の元大膳係だった渡辺氏の書いた本によるとここまでの間に
葉山の御用邸に雅子さんが招かれて2人で中華料理を食べたことがある。
1992年12月09日 雅子さんの誕生日に御所で2人きりで食事
(皇太子のリクエストによりフォアグラのせステーキ)
1992年12月12日 東宮仮御所でOKの返事
1993年02月 外務省退職
1993年06月09日 結婚

一度はあきらめていた皇太子と雅子さんを再会させ、
皇太子の気持ちを焚きつけたのは小和田(外務省)側。
皇室からの圧力で無理矢理嫁いだというのは事実ではない。
平成になり皇太子の周りは外務省出身者の側近に代わっていた。
本当の忠臣と言える側近はいなくなっていた。
最初に皇太子に近づき、チッソで駄目出しされ、皇太子も諦めたが
その後 現れるお后候補を外務省が潰し、侍従や職員を外務省から出して、周りを固めた。
再会をお膳立てして、皇太子も34歳だし、最終的にOKになった。
最初の宮内庁NOの時と、大分人事は変わっていた。


拾い物2
U氏
小和田優美子さんが「家には皇室から断られるような理由は無い!」と怒った。
優美子さんは「どうして雅子さんを拒否したのかその理由を教えて欲しい!」と宮内庁に乗り込んだ
一旦、諦めた皇太子と陰で娘の雅子さんと引き合わせる段取りを外務省の職員を利用し、
お膳立てをして結婚の運びに持って行った。
雅子さんが肩身のせまい思いをしないように、紀子様が同和だという噂をでっちあげ創価に流させた。
その後、外務省と創価あげての運動により見事に皇室入りに成功。

小和田雅子さんを皇太子妃に推したのは、柳谷謙介・元外務省事務次官、
中川融・元国連大使、領之部量三・元外務省事務次官(東宮職参与)、
山下和夫・元アルゼンチン大使(東宮侍従長)、団藤重光・元最高裁判 事(東宮職参与)らである。
団藤を除けば、外務省人脈

密会の際の運転手は柳井氏(外務省員)小和田優美子さんのいとこのご主人でもある。
皇太子は小和田家にストーカーされたと言っても過言ではない。
上流階級の方はスマートに否という意思を示した。
小和田家サイドでは、いまだに仕方なく皇室入りしたと言っているようであるが
いやならなぜ何度も会ったのか?
何度も会う機会を設けていたのは宮内庁ではなく、外務省-恒氏ルートである。


小和田恒氏発言
「ウチの娘は、皇太子妃候補と言われているが、正式にお話(要請)はされていない。」
(正式に話があれば考えてもいい)
一旦辞退したと見せかけ、宮内庁が他の話(Kさん)を進めようとすると
「断ったわけではない」
(いまさらよそへはやれない…過去の男性関係がマスコミに明らかになってしまっていた)
「じきじきに両陛下にお出ましいただきたい」
(貰いにこいということ…乞われて皇室入りしたと世間に表明したい)
そちらからお願いに来てくれと言っているようなもので、天皇、宮内庁関係者にショックを与えた。
その辺りから、天皇家と小和田家に溝が生まれた。

雅子さん発言
「NOではないの。殿下のお気持ちが知りたいの」 影では「ホントは大嫌い!」

小和田家はそれ以来ずっと両陛下に筋違いな不満を抱いている。
両陛下は小和田家のそんな態度に疑念を抱かれたが、藤森氏と皇太子が雅子さんに固執し、
お妃教育と生活の中で皇族の自覚を伝えると強く主張したため、ご成婚となった。
だが、雅子さんを導くことはできず、現在に至る。


T氏
小和田が断られても抗議し、さらに外務省に手を回し、何回も皇太子と会わせる機会を作り、
最後には皇太子を引きずり出し、雅子の待つマンションで密会させた

外務省でも、マサコさんの男性関係に関しては 絶対口を閉ざすようにとのお触れがまわっていた。
その結婚自体が国家機関を総動員した根回しの結果である。


M氏
何故小和田優美子さんは「何故うちの雅子ではいけないの?」と詰め寄ったのか。
何故小和田恒氏は「紀子の所は挨拶に行ったのにこちらには来ないのか」と激怒したのか。
いつから、皇太子妃は皇太子のストーカーに負け
囚われの身であるとまことしやかに囁かれるようになったのか。

創価学会員は平成3年から4年くらいには雅子さんが皇室にはいるべき!と触れ回っていた。
周到に企図された皇室乗っ取り計画
マスコミはすべて知っていた
だが、これを逃せば皇太子は結婚できないという虞があり、すでに乗りかかった船で誰も批判できなかった。

  • 最終更新:2017-03-26 16:47:24

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