紀子妃殿下 先祖

他拾い物

紀子妃の曾祖父(祖母の紀子さんの父)の池上四郎元大阪市長は、会津出身の出世頭の1人
関東大震災の時、船を仕立てて大阪から緊急援助物資を東京に送って感謝された。
そのときの摂政が昭和帝だった。
大阪市長での実績が認められて、最後は朝鮮総督府の文官のトップの総務監
(ナンバー2、トップの総督は軍人)になり、小作人保護の善政を敷いた

紀子妃の曽祖父は関東大震災の折り、船を仕立てて食料日用品を積み、横浜・東京に送らせた
この業績は宮中でも高く評価された
旧会津⇒警察官僚⇒市長の経歴が生きた

池上四郎(いけがみ しろう、安政4年4月18日(1857年5月11日) - 昭和4年(1929年)4月4日)
は、日本の官僚、政治家。第6代大阪市長、第6代朝鮮総督府政務総監。
兄に検事池上三郎、娘婿に内務省官吏石川銀蔵。文仁親王妃紀子は曾孫に当たる。

紀子妃のご先祖が和歌山県有田郡清水町(*現・有田川町)出身であり
平家の落人部落の出だから「部落民」の出身だと言う書き込みがいくつかあったと思いますが、
先日、和歌山県有田郡内で20年以上部落解放運動に携わってきた方
<和歌山県下には各町に部落解放同盟の支部があるが、“清水町には部落がない”ため支部もない>と言うことでした。
誰かが、何らかの意図を持ってデマを流した。

紀子さまの父方祖母の父親(曽祖父)の池上四郎は、戊辰戦争のさい年齢が足りなかったので白虎隊に入れなかった。
でも、お城の戦いには参加。
白虎隊に入隊できない子供が戦場にいたので、当時の藩主が直々に声をかける。
で、そのお殿様が秩父宮妃の祖父。
子供に恵まれなかった秩父宮妃は、家臣の末裔の紀子妃の入内を喜び、眞子さまが誕生の際には
「会津の血をひく内親王さまが誕生なさった。
皇統に会津の血が入り、これで逆賊の汚名は注がれた」と喜んだ。
「もしも秋篠宮家に、二名以上の男子が誕生したら、そのうちのお一方に秩父宮家を継いで欲しい」と仰られていた。

池上四郎氏の妻の父(要するに紀子妃のひいひいおじい様)に当たる小菅智淵は幕臣であり、
榎本武揚らとともに五稜郭で最後まで戦い抜かれ、
捕虜になった後静岡の徳川家に預けられたという経歴をお持ちです。
この静岡徳川家の当主は最後の将軍慶喜公。そしてその孫娘が高松宮喜久子妃。


秩父宮妃は会津の姫であり、徳川家につながる方。
高松宮妃は徳川最後の将軍、慶喜公の孫娘。
明治維新で官軍に刃向かう形になり、
逆賊と蔑まれた方々の末裔が会津藩士の末裔である紀子妃、
そしてその血を引く悠仁親王殿下。
秩父・高松両宮妃が入内することによって始まった
旧幕府陣営と皇室との和解が悠仁親王の即位によって成就する。
小菅智淵は静岡徳川家が身柄を引き取ったが、能力を見込んだ明治政府に請われ陸軍へ。
池上四郎も小菅智淵も銅像になった人でもある。
(小菅の銅像は芝公園にあったが、先の大戦で供出され今はない)


この年(大正12)4月、大阪市は公費を以って、3ヶ年計画で、市内全小学校に1校1名の割りで、
学校看護婦(大阪では学校衛生婦と称した)を配置する事業を開始した。
この1校1名駐在、全校配置の制度こそ、日本の学校看護婦をして欧米のスクールナースと違う道を
歩み始めさせる決定的なきっかけとなったものである。欧米のスクールナースの場合は、
1校に駐在するものではなく、数校を巡回するものであったから、対象者(英米の場合は伝染性皮膚病が主であった)がいなくなれば
回ってこなくなるし、児童の救急手当てにも従事しなかった。
それに対して日本の学校看護婦は、学校に駐在することによって、単に病気を持つ児童の看護に従事するだけでなく、
日常的に健康な児童の健康管理から、衛生教育にもあたることになって行くのである。
欧米のスクールナースがいつまでも衛生職員でとどまっているのに対して、日本の学校看護婦が最終的に学校職員に編入され、
さらに教員として遇せられるようになって行く大きな理由がここにあったのである。
この事業を開始したのが当時の大阪市長池上四郎(いけがみしろう、1857~1929)である。


川嶋家自体は、紀州の庄屋。
紀子妃の曾祖父(祖母の紀子様の父上)の池上四郎(元朝鮮総督府政務総監、元大阪市長)が会津藩士。
池上兄弟(兄の三郎は検事)は、戊申後に苦労した会津藩士の出世頭の一人。
池上家は、250石で上級藩士。

  • 最終更新:2017-06-03 23:04:27

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