皇居勤労奉仕

勤労奉仕について

昭和20年5月の空襲で焼けた宮殿の焼跡整理のため
同年12月、宮城県内の有志が勤労奉仕を申し出たのが始まりで
その後各地の団体からも同様の申出があり、現在では皇居及び赤坂御用地において
ほぼ毎日、ボランティア・グループや地域の婦人会、
職場の仲間同士等の数団体が、除草、清掃、庭園作業などの奉仕を行っている。 

みくに奉仕団

平成3年12月毎日新聞

新編戦後政治 31 編集委員 岩見隆夫
まもなく真珠湾攻撃五十周年がやってくる。
開戦、そして終戦のころの昭和天皇を知る人たちはほとんど故人になったが、
終戦の一九四五(昭和二十)年暮れ、天皇と直接言葉をかわした生き証人が二人いる。
一人は元法相の長谷川峻衆院議員、七十九歳、
もう一人は元日本共産党委員長の田中清玄、八十五歳――。
四五年十二月八日は真珠湾攻撃四周年の日だが、同日付の『入江相政日記』には
「宮城県の青年団が今日から三日間宮殿のお焼跡の整理をやってゐる所へお出ましになり、
 団長に色々お詞を賜はる。実に感激してゐた。続いて皇后宮もお出ましになる」
(原文のまま)とあるが、その団長が長谷川峻だった。
長谷川は、東久邇稔彦首相の秘書官をつとめたあとである。
「首相官邸もゴタゴタの最中で、農林大臣なんかなり手がない。
宮城の田舎に帰ったのは終戦の年の十月ごろだねえ。米はないと言ったって、まああるでしょ。
天皇陛下に月給もらったことはないけど、皇居は三月の大空襲で焼けたままだと言うし、
進駐軍がきたら威張りだす。国民は放心状態だろう。まあ、お百姓ができることといったら、
一つ皇居の草でも刈ってね、草と瓦(かわら)を片付けたらどうか、という話に自然になりましたよ」
といま、長谷川は言う。
それでは、と長谷川は農村と皇室の両方にくわしい、伯爵あがりの有馬頼寧(第一次近衛内閣の農相)
に相談にいったところ、有馬は、「長谷川君、そりゃ早い。オレなんか、いまからサンフランシスコかハワイか、
どっかの刑務所に入れられるという話があるくらいだよ」と反対した。
緒方竹虎書記官長(いまの官房長官)にも話してみたが、緒方はやや積極的で、
「どこの役所にも総務課というのがあるから、宮内庁にもあるんじゃないか。そこにいってみろ」と言う。
長谷川は青年団の先輩と二人で宮内庁を訪ねた。総務課長は筧素彦といった。
「実は皇居の中を清掃してお慰めしたい」
「そうですか。よくそのことに気がつきましたね。いいですよ。いつからにしますか」
「二週間後の十二月八日に」
「それじゃあ、お待ちしてます」とあっさり決まった。書類をだすわけでもなく、許可証一枚ない。
日本の役人も非常の時には決断するものだ、と長谷川は感心したという。
それから郷里、宮城県栗原郡にとってかえし、青年男女六十三人で「農民みくに(御国)奉仕団」を編成した。
東京にくりこむまでの苦労話は割愛するが、汽車の切符と宿舎の確保にとりわけ難儀したという。
開戦記念日の自覚などなく、偶然に十二月八日清掃作業開始。
「なかに入ったら、豊明殿も焼けたまま、きれいな庭があったあたりはもう瓦やらなにやらで
がちゃがちゃ、金庫なんかもひっくり返ったままだし・・・・。
あ、案内役の私としては、作業をしている時に、天皇陛下か皇后陛下が垣根の外ぐらいから
ご覧になることがありはしないか、という期待感はありました。口にはだしませんよ。
青年諸君は持ってきた紅白の餅(もち)をなんとしても陛下に差し上げてくれと言うもんだから、
筧総務課長に受けとってもらった。そして、一時間ほど作業をしたら天皇陛下が歩いてこられたんだ。
道なんかないんだから、こわれたコンクリートの土台石を伝ってね。
五、六人侍従服を着た職員を連れて、よれよれの中折れ帽をかぶって、靴はまくれていたなあ。
とにかく、陛下が庶民に会うのはこれが初めてなんだから。日本の歴史はじまって以来ですよ。
こう、空に向かって、一言ずつしゃべられるんだなあ。
『あっ、そう』というのは、その時からはじまったんだから」
天皇は
「どこからきたか。何を食べているか」などと聞かれた。
長谷川は
「米は口に入りません。供出しているものですから」
と答えた。団員は作業の手を休めて、ただ立っていた。約十分ぐらい。帰っていかれる時、だれかが
「長谷川さん、君が代を歌いましょう」
と言い、歌いだした。天皇はその間、足を止め、背中を向けたまま立っておられた。
二、三十分すると、今度は皇后陛下がやってこられた。天皇陛下のお勧めだった、とあとで聞いた。
役場の職員をしている女性団員が前にでて、話のお相手をした。
黒い上っ張りのすすけた職員服に手は真っ黒、前日から風邪もひいていたが、仕方ない。
皇后は牛革みたいな、あまり上等でないオーバーを着ておられた。
「何を食べていますか」
と聞かれた。当時は食べ物の話がなによりも先行した。
「つめえりです。」
と女性団員が答えた。田舎の方言である。
「それはどんなものですか」
「みそ汁に、粉を練ったものをとぽんとぽんと入れます」
「それは、東京ですいとんと言いますよ」
この「すいとん問答」にはみんな感激した。一日延ばして、結局四日間作業し、最後の夜、
二重橋の前に整列した。侍従次長がきて、ねぎらいの言葉のあと、
「あなた方が持ってきた餅だが、皇居では国民からいただいたものを直接口には入れません。
だから頼んでアラレにしてもらって、皇太子殿下はじめ全部皇居に集めて
『いま時、こういう人たちがいる』 とお話しになりながら食べましたから」
と言った。全員、真っ暗な二重橋を渡り、外に出てから万歳をして帰った。
これが皇居清掃奉仕団の始まりである。のち全国の県に広がった。 (敬称略)

皇居勤労奉仕に参加して両陛下からお言葉を賜った感激

別冊正論Extra.14
(平成23年1月7日発行)

平成の世に生きる若者にとって皇室とは
皇居勤労奉仕に参加して両陛下からお言葉を賜った感激
皇室を戴く国の担い手てしての自覚を共有する輪を広げたい
全日本学生文化会議「大学の使命」編集長 三荻 祥(みつおぎ さき)


◆皇居勤労奉仕に参加して
どうすれば天皇陛下にお目にかかることができるのだろうか。そもそも普通の若者の私が、
天皇陛下からお言葉を賜ることなどできるのだろうか。
こうした疑問を抱えたまま大学を卒業して間もないある時、知人から皇居勤労奉仕のことを教えてもらった。
ここに参加すれば、両陛下と直接お話しをすることができるという。
概要や申し込み方法が分からなかったので、宮内庁に電話した。勤労奉仕の担当をしているのは、
長官官房庶務課の庶務第二係で、男性職員の方が丁寧に説明して下さった。
勤労奉仕は十五~七十五歳の男女で、十五名以上揃えば申し込める。
希望する日程の半年前から申し込みを受け付けており、特別な費用はかからない
(但し、食事は自己負担で、地方の方は東京までの交通費と宿泊費が必要)。
服装も作業ができる格好であればよい。奉仕の内容は、平日の連続した四日間(うち三日が皇居、一日が赤坂御所)
朝八時過ぎから午後四時までで、草取りや落ち葉掃き、室内の清掃を行うというものだ。
これならば私にも出来ると思い、知人や後輩の女子学生に声をかけてみた。
一度は、両陛下にお会いしてみたいと思っている学生は意外に多かったが、
平日の四日間、予定を空けるのは難しく、ようやくのことで十五名揃えることができた。
せっかくなので、両陛下にゆかりのある団体名をつけようと思い宮内庁のホームページを見たところ、
平成十年に開催された「第二十六回IBBYニューデリー大会」での皇后陛下の基調講演録を見つけた。
その中で、ヤマトタケルのお妃であるオトタチバナヒメについて触れられていた。
オトタチバナヒメは、ヤマトタケルが相模湾を出航しようとした時に、
自らを生贄にすることで海を鎮めようとされた女性だ。このオトタチバナヒメの名にあやかり、
「たちばな奉仕団」と命名した。私が団長を務め、九州の女子学生十四名と共に、
平成十九年九月二十五日から四日間、皇居勤労奉仕に参加した。
両陛下には奉仕の初日、宮内庁庁舎の裏手にふる蓮池参集所にてお会いすることができた。
私達十五名のほか、郷友連盟や神社関係など三団体、約百五十名余りが参加していた。
平日のためか、殆どは高齢者の方々だった。
二十畳ほどの部屋の中、団体毎に横四列に整列して並ぶ。宮内庁職員から礼や万歳三唱のタイミング、
両陛下からのお言葉は団体毎に賜ることなどの説明を受けた。その後、二十分ほどお待ちしたが、
これからお会いできる嬉しさと、どのようなご下問があるのだろうか、
きちんとお答えできるだろうかとの不安が入り混じり、気持ちが高ぶっていった。
職員の方から「両陛下がもうじきお出ましになります」との言葉があり、しばらくして車が入り口に到着した。
車のドアが開けられ、皇后陛下が、次に天皇陛下が降りられた。天皇陛下のお姿を拝した瞬間、
やっとお会いすることができたという喜びで、胸がいっぱいになった。私達たちばな奉仕団が
お言葉を賜るのは、四団体の最後だったが、早くお言葉を賜りたいという気持ちがこみ上げてきた。

◆両陛下にお会いして
他団体へのご下問が終わり、いよいよ私の前に両陛下がお立ちになった。その距離、僅か一メートル余り。
極度の緊張の中、宮内庁職員の事前説明に従い、団体名と人数を申し上げた。
 三荻 「東京都、全日本学生文化会議たちばな奉仕団、十五名で参りました」
 天皇陛下 「ありがとう。学生ですか?どちらから」
 三荻 「九州の学生で参りました」
 天皇陛下 「どこの大学ですか?」
 三荻 「福岡教育大学、九州女子大学、九州産業大学、佐賀大学、長崎大学、熊本大学、
      熊本県立大学から参りました」
 天皇陛下 「各地から来られたのですね」
 皇后陛下 「各地からありがとう」
続いて、その年、各地で被害をもたらした台風についてのご下問があった。
 天皇陛下 「九州ならば、台風は大変だったでしょう」
 三荻 「私は直接台風の被害は受けておりません。私達は夏に島の小学生を集めて
      和歌や歴史を教える教育事業をしていますが、当日は台風も過ぎ、天候に恵まれ開催できました」
 皇后陛下 「よいお導きがあったのですね」
 天皇陛下 「島はどこですか?」
 三荻 「長崎県の生月島(いきつきしま)です」
 天皇陛下 「あぁ生月島。きれいなところで」
 皇后陛下 「行きましたね。(陛下の方をご覧になって)あの時は寒かったですね」
「あの時」とは、平成十四年十一月のことだ。第二十二回全国豊かな海づくり大会への
ご臨席に合わせて、地方事情ご視察の際訪問されたのが、長崎県平戸島の北西にある生月島だ。
この時、平戸と生月の間にかかる生月大橋で車を止め、橋の真ん中に立たれ、
歓迎の漁船に手を振られた。その時のことを思い出されたようであった。
最後に天皇陛下から「元気でお過ごしください」、皇后陛下から「遠くからありがとう」とのお言葉を賜り、
たちばな奉仕団揃って礼をした。
その後、全員揃っての「万歳三唱」を行い、お見送りをした。両陛下が乗られた車が見えなくなり、
ようやく緊張がほぐれた私の頭の中で、両陛下から賜った「ありがとう」のお言葉が響いていた。
特に皇后陛下の声はテレビでも耳にしたことが無かったため、透き通った響きがとても印象に残った。
両陛下から賜った「ありがとう」のお言葉をどのように受け止めるべきか。
勤労奉仕ヘの参加に対するお言葉だろうが、私はそこに、若者に対する期待が
込められているようにも感じた。そして、その期待に応える自分でありたいという思いが湧き上がってきた。

皇室と国民の絆を示すエピソード

週刊新潮2006年9月21日号
皇室の危機は終わらない 日本大学教授 百地章

皇室と国民の絆を示すこんなエピソードがある。
終戦後、昭和天皇は敗戦で焦土となった全国各地をご巡幸され、国民を励まされた。
昭和天皇は、「全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う」
「自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかはまったく考えることなくやって欲しい」
そうしたご覚悟を持ち、昭和21年2月から29年8月までの8年半続いた行程は3万3千キロにも及んだ。
陛下は全国津々浦々で国民の熱狂的な歓迎を受けられ、それが戦後日本の復興の原動力となった。
昭和20年12月、陛下の思いにお応えするように、宮城県の農村から60人の青年たちが上京した。
空襲で荒れ果てた二重橋前の広場に生い茂る草取りや掃除をしたい・・・・・、そんな純粋な気持ちからだった。
しかし、GHQの占領が始まっていた時代である。天子様のために働いたら検挙されるやもしれないとの覚悟までし、
出発前に親兄弟と水盃を交わした者さえいた。彼らが皇居内で連日、清掃作業をしていたことが、陛下のお耳に達し、
お出ましになった陛下から、温かいお言葉を頂いた。一同、思いもよらない感激の拝謁となった。
この話が伝わるや、北海道から、九州まで、全国から勤労奉仕の願い出が殺到した。
以後、今日に至るまで、全国各地からの奉仕団が、ほぼ毎日、皇居及び東宮御所で勤労奉仕を行っている。
皇居では、従来通り両陛下のご会釈がある。
ところが、近頃では、東宮御所でお出ましになるのは皇太子殿下だけで、ご静養以後、妃殿下は勤労奉仕団とお会いになっていない。
勤労奉仕団は、皇室と国民との絆を示す象徴的な存在である。
雅子妃が将来の皇后として、国民との絆を大事にされるのであれば、一日も早く、ご会釈を勤労奉仕団の人々にたまわる日が来て欲しいと願う。

ご退位表明で申し込み殺到! 「皇居勤労奉仕」に行ってきた

新潮45 2018年7月号

宮内庁ホームページより





  • 最終更新:2018-06-19 10:36:11

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