皇室は祈りでありたい

WiLL2016年6月号
皇室は祈りでありたい 長部日出雄(作家)

昭憲皇太后が明治4年に吹上御苑で始められた宮中の養蚕は「皇后御親蚕」と呼ばれて歴代の皇后に受け継がれて来た。
現在は皇居の森の中の小高い丘に佇む「紅葉山御養蚕所」で、日中交雑種と欧中交雑種の蚕、それに日本産種の「小石丸」が飼育されている。
日本の純粋種である小石丸は繭の採れる量が少ないため、外来の新品種に座を譲り、一般の養蚕農家ではもう飼育されていない。
御養蚕所でも飼育中止が検討されていたが、美智子皇后の「繭の形が愛らしく糸が繊細でとても美しい。
もうしばらく古いものを残しておきたいので、小石丸を育ててみましょう」という意向により辛うじて生き残った。

そこへ平成5年、正倉院宝物の復元模造に取り組んでいる奈良の宮内庁正倉院事務所から、
古代の染織品を復元するために、当時の繭に最も近いとおもわれる御養蚕所の小石丸を使わせて貰えないか、という申し入れがあった。
その頃御養蚕所で生産する全種合わせて244キロの生繭のうち、小石丸の収繭量は僅か3.38パーセントの8キロでしかない。
従って正倉院の染織品復元に要する量を満たすのは非常に難しく、美智子皇后は人手が少ない御養蚕所の所員の負担が過重になるのを気遣われたが、
結局要請を受け入れ、「正倉院宝物染織品復元十箇年計画」に加わった御養蚕所では、小石丸の収繭量を従来の6、7倍に増やすことにして、
初年度には48キロの生繭を正倉院事務所へ送り出した。
御養蚕は美智子皇后が中心になって行なわれ、一回の養蚕期間のうち二日に一度は、多忙なご公務の合間を縫い、
紺絣の着物の上位にスラックスという姿で所員と共に作業をされた。
皇后は皇太子妃の頃から養蚕について幾首も歌を詠まれているが、この「十箇年計画」の間の心境を伝えるものに次の一首がある。

「この年も蚕飼(こがひ)する日の近づきて桑おほし立つ五月晴れのもと」
(「おほし立つ」は「生し立つ」の意)

小石丸の増産が始められてから十年目の平成16年3月に、染織を京都の川島織物が担当して
絢爛豪華な古代裂(こだいぎれ)を大量に復元した「十箇年計画」は無事終了した。
収繭量が増えた小石丸の糸は、続いて鎌倉時代に製作された『春日権現験記絵』(大和絵で描かれた社寺縁起絵巻の
代表作であると共に歴史資料としての価値が極めて高いとされる)全二十巻の表紙裂地の復元に用いられることになった。

以上は「皇后陛下古希記念」として刊行された『皇后さまり御親蚕』という本で知ったことである。
美智子皇后が国民の多くの目に触れないところで、わが国の伝統文化を後世に伝えようと地道な努力を、
いかに根気よく続けているかが察せられるであろう。
美智子皇后は「伝統」に関して独特の考えを持っていて、御結婚五十年り記者会見で、
お二人で守って来られた皇室の伝統について質問されたのに対し、こう答えられた。

「伝統と共に生きるということは、時に大変なことでもありますが、
伝統があるために、国や社会や家が、どれだけ力強く、豊かになれているかということに気付かされることがあります。
一方で型のみで残った伝統が、社会の進展を阻んだり、伝統という名の下で、古い慣習が人々を苦しめていることもあり、
この言葉が安易に使われることは好ましく思いません。
また、伝統には表に現れる型と、内に秘められた心の部分があり、その二つが共に継承されていることも、
片方だけで伝わってきていることもあると思います。
WBCで活躍した日本の選手たちは、鎧も着ず、切腹したり、ゴザルとは言ってはおられなかったけれど、
どの選手も、やはりどこか『さむらい』的で、美しい強さをもって戦っておりました。」

このように言葉の表現はいつも和らかで、それがいかにも「和の国」であるわが国の皇后陛下にふさわしく思われる。
また伝統には守るべきものとそうでないものがあるという話は、ご結婚されてから、
皇太子殿下が宮廷内の強い反対を押し切って、天皇家の伝統であった親子別居とそれを支えていた
乳人制度を廃止し、親子同居の家庭生活という画期的な改革を実現されたことをおもい出させる。
美智子皇后の記者会見でのご発言や、宮内記者会の代表質問に対し文書で寄せられた回答で、
発表当時から私の記憶に強く残っていた箇所は次の二つであった。
一つは御即位十年に当っての記者会見で、十年を迎えたお気持ちを聞かれ、次のように答えられたことだ。

「社会に生きる人々には、それぞれの立場に応じて役割が求められており、皇室の私どもには、
行政に求められるものに比べ、より精神的な支援としての検診が求められているように感じます」

「様々な事柄に関し、携わる人々と共に考え、よい方向を求めていくとともに、国民の叡知がよい判断を下し、
人々の意志がよきことを志向するよう常に祈り続けていらっしゃる陛下のおそばで、
私もすべてがあるべき姿にあるよう祈りつつ、自分の分を果たしていきたいと考えています」

このご発言は「皇室は祈りでありたい」という皇后陛下の願いとして、かねてより伝えられていたことであった。
もう一つは、その三年前のお誕生日に、若い世代を中心に皇室への無関心層が増えているように思いますが、
今後、皇室と国民の絆を強めるためにどのような努力が必要だとお考えでしょうか、という宮内記者会の代表質問に、文書でこう答えられたことである。

「常に国民の関心の対象となっているというよりも、国の大切な折々にこの国に皇室があって良かった、と、
国民が心から安堵し喜ぶことのできる皇室でありたいと思っています。
国民の関心の有無ということも、決して無視してはならないことと思いますが、皇室としての努力は、
自分たちの日々の在り方や仕事により、国民に信頼される皇室の維持のために払われねばならないと考えます」

このように答えられるより五年前に、われわれは既にそのような皇室と国民の結びつきを、テレビを通じて目の当たりにしていた。


国の悲しみを国民と共に悲しむ
平成3年7月10日は、皇室と国民の間に、遥かな古からの伝統を踏まえつつ、全く新たな結びつきが生れた日であった。
その一年前の11月半ばから始まった雲仙普賢岳の噴火は、次第に拡大の度を増し、
この年の6月3日に発生した火砕流は、取材に当っていた報道関係者16人と同行のタクシー運転手4人、
アメリカから来た火山学者ら4人、警戒中の消防団員12人、警官2人、住民ら6人など、
合せて44人の死者・行方不明者と9人の負傷者を出す大惨事を生み、警戒区域に設定された山麓の住民一万人以上が避難生活を余儀なくされた。
それから約五週間後の7月10日午前、天皇、皇后両陛下は、定期便の民間機で長崎空港に着き、
政府専用のヘリコプターに乗って県立島原工業高校のグランドに降り立った。
天皇が災害のさなかに被災地を訪問されるのは戦後初めてのことであった。
両陛下はまず火砕流で死亡した消防団員の遺族34人が集まっていた近くの旅館を訪ねて、一人一人に慰めと励ましの言葉をかけられた。
そのあと背広の上着を脱いでネクタイを外しワイシャツの袖をまくって被災者と同じ夏向きの軽装になった天皇陛下は、
皇后陛下と共に仮設住宅と避難所巡りを始めた。
島原市総合体育館を利用した避難所に入られた時、臨時に敷かれた畳に坐っている被災者達に近づいて行った天皇陛下は、
ごく自然な動きで膝を曲げて腰を落とされ、硬い板敷きのままの床に正座して、相手と同じ目の高さでお見舞いの言葉をかけられた。
「膝突き合わせて」という常套句があるが、まさにその通りの格好で、後に随った美智子皇后も硬い床に膝をつき、顔を寄せて被災者を慰めた。
これは本当に被災者の苦しみと悲しみに心を寄せていなければできない姿勢であるとおもわれ、
硬い床に膝をつけられるのは、以後に起ったいくつもの災害で避難所を慰問する際、必ずそうされる定型となった。

美智子皇后の災害地慰問で心に深く残るのは、平成7年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の被災地を31日に見舞われた時、
ジャンパー姿の天皇陛下に同行され、まだ行方不明者と遺体の捜索が続く神戸市長田区の焼け跡に、
皇居から摘んで来た黄色い水仙の花束を敬虔に捧げて弔意を表し、
体育館や小学校の避難所の床に膝をつかれて被災者を優しくいたわられた皇后陛下に、
感極まった一人の女性がおもわず縋りつきそうになった場面であった。
きっと温かみのある母性を象徴する存在のように感じられたのだろう。

戦後のわが国に最大の苦しみと悲しみを齎した東日本大震災が平成23年3月11日に発生すると、
天皇、皇后両陛下が30日に東京武道館に避難していた被災者を見舞われたのを皮切りに、皇太子、皇太子妃、
秋篠宮、秋篠宮妃、常陸宮、常陸宮妃が、相次いで都内や近県の避難所を慰問された。
親兄弟やわが子や配偶者や親友を失った人々の苦しみや悲しみが想像を絶するものであるのはいうまでもあるまいが、
被災者にとっては不幸のどん底にあって国や自治体から見捨てられた気持ちになるのもまた辛いことであるに違いない。

そういう時、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である天皇陛下と皇后陛下、それに皇族方の慰問は、
国は被災地と被災者を見捨てない、という気持ちの表れとして、大きな慰めと励ましの力になる。
国の悲しみを国民と共に悲しむ。その皇室の姿勢を象徴的に示すものとして感銘を受けたのは、
4月27日に宮城県南三陸町を慰問された天皇、皇后両陛下が、瓦礫にの山に向って黙禱を捧げられた場面であった。
この瓦礫の山は、東日本大震災の厖大な犠牲者と被災者のありとあらゆる苦しみと悲しみの象徴である。
そこに籠められた無数の物語に対する想像力を、われわれは長く忘れないようにしたい…。
切実にそうおもわされた両陛下の黙禱であった。
このあと両陛下は、南三陸町の歌津中学校体育館へ行かれ、いつもの避難所慰問の例に洩れず、
床に両膝をつけて被災者の一人一人に声をかけられた後、手を振って退出される際に、
被災者から起った「有難うございました」という声が最後には拍手に変った。
両陛下の慰問が被災者に希望を齎したことの証明であろう。
これがなければ被災者の苦しみと悲しみと辛さは、更に深まっていたかもしれない。
戦後のわが国が最も活力に満ちていた昭和の後半に皇太子、皇太子妃として、
さまざまな面で次第に厳しい状況に置かれた平成の時代には天皇、皇后として、
両陛下が存在されたのはわが国にとって幸運なことであったとおもう。
そして、いささか唐突の感を与えるかもしれないが、お二人が結ばれるまでの経緯を考えれば、
数々の猛反対にも屈せず、民間からの出身である美智子さまを皇太子妃の第一候補として貫き通した
小泉信三の功績の重要さを、改めて痛感せずにはいられないのである。

『日本を支えた12人』(集英社文庫)所収「美智子皇后陛下」より抜粋

  • 最終更新:2017-07-17 18:33:31

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