皇太子54歳誕生会見 前代未聞の「ご発言改ざん騒動」

週刊文春2014年3月6日号
雅子さまの外国ご訪問をめぐり
皇太子54歳誕生会見 前代未聞の「ご発言改ざん騒動」
…そして皇太子が約40分にわたる会見の締めくくりに、ご一家での外国訪問について、こう回答されたのだ。
〈やはり雅子にとっても外国訪問が治療上も良いのであれば、そしてまた、愛子にとっても
視野を広めるという意味で外国の地を見ておくことが良いのであれば、様々なことを考えて、
今後ともどのような外国訪問ができるかということをいろいろ考えていく必要があると思います。
実際、私たちもそのようなことをいろいろ考えているところではあります。〉
宮内庁担当記者が話す。
「ずいぶん具体的に仰ったなと思いました。多くの記者が『両殿下はスイスご訪問に前向きなのだ』と
考えたはずです」
昨年のオランダご訪問、被災三県のご慰問などV字回復を期待された雅子さまのご体調だが、年明けから
再び停滞期に。今年一年の見通しも立っていない状態だが、
それを占う意味でも、海外訪問は重要なイベントだと言える。
(略)
外務省関係者が内々に明かす。
「一切報じられていませんが、実はスイス大使から招待状として、正式な外交文書である
『口上書』が既に送られているのです」(外務省報道課は「そのような事実はない」と回答)
スイスは“国連一家”とも言われる雅子さまのご実家・小和田家にとっても縁の深い国。
雅子さまの双子の妹である池田礼子さん、渋谷節子さんがジュネーブ生まれであり、
礼子さんはジュネーブに本部を置く国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)勤務の経験がある。
一方の節子さんは、夫が世界保健機関(WHO)に勤めていた関係で、ジュネーブに住んでいた。
「しかし、昨年のオランダご訪問の際、雅子さまのご体調の見極めに時間がかかり、
先方の王室からの招待の返事を一ヵ月以上も引き延ばしたことで、宮内庁だけでなく、
政府関係者からも『あり得ないことだ』と批判された。その轍を踏まないために、
スイス行きについては、公表の時期など、慎重かつ秘密裡に進めようとしているはずです。
被災地訪問より先に外国訪問検討というのがニュースになるのでは見場が悪いですから」(宮内庁関係者)
例年通り、誕生日会見の質問は、記者会が事前に宮内庁とやり取りするかたちで決められた。
準備されていた五つの質問について、皇太子は用意されたペーパーを見ながら淀みなくお答えになった。
「その後、関連質問として代表の記者から二つ質問し、アドリブでお答えいただいたのです。
殿下は一言一句、言葉を選んで慎重にお答えになっていましたが、最後の最後で
〈実際、私たちもそのようなことをいろいろ考えている〉と仰った。
お心がそのまま出てしまったように見えました。やはり殿下の中で、雅子さまと一緒に外国訪問をしたい、
という思いが大きなウェイトを占めているのでしょう。
(略)
だが、会見後に事態は急転直下。東宮職は宮内記者会に対し、“発言の追加”を申し出たのだ。
「皆が千代田の宮内倶楽部に戻ってきた後、東宮職から幹事社を通じて連絡があったのです。
『関連質問問二の会見録には“一般論として”と付け加えてほしい。
記事を掲載する際にはその真意を汲んで書いてほしい』という。
つまり、発言は特定の国を想定した上でのことではない、というのです。
皇太子が発言を修正するなんて前代未聞。記者会では『ご発言の改ざんになってしまう!』
という声も上がりました。けっきょく、全社一致で受け入れられない、と突き返したのです」(宮内庁担当記者)
記者会の強い主張に、東宮職は引き下がったという。
この騒動を、別の宮内庁担当記者はこう分析する。「結局、雅子さまへの行き過ぎた配慮が
事態を混乱させているのです。外国訪問が〈治療上も良い〉というご発言も、海外公務を
雅子さまの私的な治療に役立てるような印象を与えてしまう。海外訪問が雅子さまにとって
いかに重要かというのがよく分かります」
海外訪問だけではない。全般的に今回の会見では、雅子さまについての言及も多く見られた。
会見冒頭、一年を振り返って印象に残ったことについて皇太子は、国内での
自然災害から話を始められたが、
「会見が始まって早々に、被災地を〈雅子と共に訪問しました〉とか、〈雅子と共に、
被災地の復興に永く心を寄せていきたい〉と仰る。他にもオランダ訪問は〈(雅子さま)
本人の努力も実り、無事に訪問を終えることができました〉など、これではまるで
雅子さまの“スポークスマン”です」(千代田関係者)
(略)
あるベテラン宮内記者も、落胆を隠さない。
「皇太子ご自身の肺腑から滲み出てきたようなお言葉には感じられませんでした。
例えば、一年を振り返ってのご感想は、被災地、オリンピック、オランダご訪問、
マンデラ大統領の追悼式の話など、総花的で事象を網羅した非常に長い回答でしたが、
まるで論文を読み上げているようでした。特に何を仰りたいのか、わからないのです」
(略)
「被災地への思いも隔靴掻痒です。言葉数ではありません。昭和天皇は災害の被災者に向かって
『気の毒に思う』とただ一言だけでした。でもそれだけで見出しになる力があった。
一緒に歩んでいただいている、という思いを国民が感じるやめにはご自身の言葉が必要なのです」(同前)
昭和62年12月、同じ54歳の誕生日を前に、皇太子時代の天皇が臨まれた記者会見は柔軟で、
腹蔵無い、ハイレベルなものだった。当時の会見は、現在のように皇太子のお答えを
拝聴するだけでなく、皇太子と記者が会話のやり取りをしていた。
「当時皇太子だった陛下は天皇の地位について、憲法の解釈や天皇機関説事件などを
引きながら、当意即妙にお答えになり、記者も、中世以降の天皇の在り方を踏まえた上で
歴史的な質問をしていたのです。一方で、浩宮さまのご結婚に時期について問われると、
殿下は〈こういうことは、前にお答えしたように、お答えしないことにしています〉と
ぴしゃりと仰る。会見は殿下の威厳を感じる場でした」(皇室ジャーナリスト)
誕生日夕刻、ようやく騒動が収まった頃、東宮御所には天皇皇后や黒田清子さん夫妻、
雅子さまの妹家族らがお集まりになり、内宴が催されたという。
「この4月に愛子さまが進学される学習院女子中等科や、夜更かしをしながらご覧になった
オリンピックについてお話しになったそうです」(別の宮内庁関係者)
(略)


  • 最終更新:2017-06-17 18:21:13

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