皇太子殿下、ご退位なさいませ/山折哲雄

新潮45 2013年3月号
(2013/02/18発売)
皇太子殿下、ご退位なさいませ/山折哲雄
皇室の未来のために敢えて申し上げる。「皇太子さまは、
第二の人生を選ばれてもいい時期ではないだろうか」。

憂愁深まる表情
いま、皇室のあり方が揺れている。宮内庁の公式発表にふれるだけでも、
天皇・皇后両陛下と皇太子・皇太子妃のあいだに、思いもかけない行き違いや意思の疎通を欠く事態が進行しているようにもみえる。
マスメディアの報道も、かならずしも根拠の明らかでないような推測や憶測、そして論評を加えるようになっている。
そのためであろう、国民のあいだにしだいに疑心暗鬼のさざ波がたちはじめている。
とりわけ遠くから拝見していて心が痛むのは、天皇・皇后両陛下のいつに変わらぬ温容と、
それにたいして憂愁の度を深める皇太子・皇太子妃の沈んだ表情の、以前にはみられなかった非対称の印象である。
その落差は埋めることができるのだろうか。修復は可能なのだろうか、という懸念である。
そんな不安な思いにとらわれるようになっていた矢先のことだった。
昨年の暮になって、皇太子妃雅子さま(49)の病状が大きく報道され、
医師たちによって「適応障害」と診断された皇太子妃の長期療養が昨年12月で10年目に入った
ということが伝えられたのである。加えてその記事には、明けて今年6月には皇太子さまとのご成婚20年を迎えるけれども、
そのほぼ半分を療養に費やしたことになる、雅子さまの病状と治療は、今ほんとうのところどうなっているのか、と書かれていた。
はたして日本の象徴天皇制に、何らかの異変が生じているのだろうか。
もしそうであるとしたら、そろそろ何らかの修復の手を打つべきときが迫っているのではないか、
そう考える人々がしだいに増えてきているように私には思われる。
 (略)

小泉内閣のときだったと思う。皇位の継承をめぐって、女性天皇や女系天皇は是か非か、という社会の議論に押されるような形で、
「皇室典範に関する有識者会議」が設けられた。
10名の学識者が集まって毎月のように検討がおこなわれることになったが、たまたまそのヒアリングの席に招かれ、
意見をのべる機会を与えられた。平成17年6月8日のことだったが、もう7年以上も前のことになる。まず、そのことから語ってみよう。
長いあいだ私は宗教学や思想史を専門分野として研究をつづけてきたが、
とりわけ象徴天皇制の問題については格別の関心を抱いていたので、ヒアリングの席ではそのような観点から意見をのべさせていただくことにした。
世界にはさまざまな統治のスタイルがみられるが、そのなかでわが国の象徴天皇制という統治形式は、
抜群の安定性を示してきた点できわ立っている。それはいったい何に由来するのか、というところから話をはじめたことを覚えている。

さて、日本の歴史をふり返ると、長期にわたる平和の時代が二度もあったということに気づく。
一度目は平安時代の350年、二度目が江戸時代の250年である。これは驚くべきことではないか。
こんな例はヨーロッパでも中国やインドでももちろんみられない。
なぜ、それほどに安定した時代を実現することができたのか。もちろんそこには政治・経済的な要因をはじめ、軍事や外交、
そして地政学的な問題などいろいろな要因が考えられるわけであるが、そのなかでもっとも重要な役割をはたしたのが、
じつは象徴天皇制がもっている独自の機能だったのではないか。その統治のスタイルは第二次世界大戦後にはじめてつくられたのではない、
その原形はすでに平安時代、10世紀の段階にでき上がっていたのではないかというのが私の考えだった。
第一にいいたいのは、その統治の特徴が、宗教的権威と政治権力の二元的なシステムによって柔軟につくりあげられてきたという点にある。
具体的にいうと、すでに10世紀の摂関政治の段階で、宗教的な権威すなわち象徴としての天皇の役割と
政治的な権力のあいだの相互関係ができ上がっていた。相互牽制の関係といってもいいだろう。互いに互いの独走を封じるシステム、である。
それが「国家」と「宗教」のあいだに調和をもたらす上で大きく貢献したのではないか。
平和の均衡状態を生みだす重要な背景だったのではないかと思う。
第二の問題が、皇位継承の場面で二つの原理が有効にはたらいたという点である。一つが血縁原理、二つ目がカリスマ原理である。
ご承知のように天皇が崩御すると、ただちに次代の天皇への践祚と即位の儀礼がおこなわれるわけであるが、
それを象徴するのが即時的におこなわれる三種の神器の承継という手続きだった。
これをヨーロッパの王権論ではアクセッション(accession)という。それにたいして、多少の時日をおいて、
王位(皇位)が即時的に継承されたことを内外に宣言する即位の礼がおこなわれる。いわば皇位の継承を社会化、
国際化するための儀礼であり、これを欧米ではサクセッション(succession)と呼んでいる。

「天皇霊」というカリスマ
ところがわが国では西欧諸国の場合とは異なって、このアクセッションにあたる践祚とサクセッションにあたる即位の礼のほかに、
さらに第三の重要な儀礼として「大嘗祭」が、天武・持統天皇のころから欠かすことのできない「祭り」としておこなわれてきた。
これはさきの血縁原理とは別に、「天皇霊」という霊威(カリスマ)の継承という考え方にもとづいて成立したと考えられる。
「血縁原理」にたいする「カリスマ原理」といっていいだろう。
私は日本列島において象徴天皇制が永続的な安定性を保つことができたのは、右の二つの原理というか観念が
相互補完的に有効にはたらいたからではないかと考えてきた。さきにのべた平安時代350年、江戸時代250年の
長期にわたる平和の実現も、じつはそれとけっして無関係ではなかったはずだと思っているのである。
ところが、この大嘗祭の問題が旧皇室典範ではその第11条で「即位の礼及び大嘗祭は京都においてこれを行う」と規定されていた。
だから大正4年の大正天皇の即位、そして昭和3年における昭和天皇の即位も、この規定によっておこなわれ、
即位の礼と大嘗祭を一括して「御大典」と称していたのである。
やがて、敗戦を迎える。昭和22年になって新憲法が施行されたとき、右の大嘗祭規定が新しい皇室典範では削除され、
「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」と変更されることになった。
以後、大嘗祭は皇室の私事、私ごとの儀礼というように位置づけられ、その歴史的な意義が忘れられていった。
私は象徴天皇制の歴史を考える場合、血縁原理とカリスマ原理の二つの要因を前提にしなければならない、とさきにいった。
その二つの原理には、たとえそこにフィクショナルな物語が含まれているとしても、「象徴」ということを考える場合には、
それがいぜんとして王権を支える重要な理念的な柱になっているからだ。
とりわけ「皇室典範」の改正とか、皇位継承をめぐる男系、女系の問題を議するときは避けて通れない問題ではないか、と考えていたのである。

さきの平成17年におこなわれた「皇室典範に関する有識者会議」のヒアリングに応じたときも、
そのような話から私の意見をのべたのだった。その直後のことだったと思うけれども、たまたま朝日新聞の社会部で
長いあいだ皇室担当の記者をされていた岩井克己さんの取材をうけることになった。私の意見に関心をもたれていたからではないかと思う。
その岩井さんが、その翌年になってからだったと思うが、「天皇家の宿題」という示唆に富む本を朝日新書の一冊として出版され、
それを読んで私は大いに啓発された。皇室問題を検証するのは、まさに「総合社会科学だな」と書かれていたのも面白く、心にひびいた。
現在の天皇・皇后両陛下が大規模災害の直後の被災地を見舞うようになったのは平成になってから、という指摘にもハッとしたのである。
平成3(1991)年7月、雲仙普賢岳の火砕流被災地への訪問を皮切りに、平成5年の北海道南西沖地震で津波の被害をうけた奥尻島、
平成7年の阪神淡路大震災の被災地、そして今回の3.11の大災害で東北の被災地へと、その慰問と励ましの旅は国民のそば近く身を寄せ、
犠牲者のために祈りを捧げるというスタイルを貫かれていた。沖縄への慰霊の旅もその一環だったと考えられるだろう。
とりわけ私が岩井氏の本によって教えられ、胸を衝かれる思いをしたのがつぎのようなエピソードである。
現天皇がまだ皇太子時代、報道機関から天皇の理想のあり方を問われたときのことだ。
「伝統的に政治を動かす立場にない」として、平安時代の嵯峨天皇以来の「写経の精神」を挙げられたという。
自らの身近な先祖である明治、大正、昭和の近代の天皇、つまり帝国憲法下の天皇は、いまや戦後の象徴天皇制のモデルにはなりえない。
むしろ天皇家が衰微していた遠い過去の時代の天皇に「象徴」としての理想像を求め、人々にじかに精神的な慰めや励ましを与える存在であろうとする。
そのような現天皇の静かな決意が、そこにはあらわれていたのではないかと、氏は書いていた。

それにふれて、思い出すことがある。
世界的なイベントのサッカー・ワールドカップが、日本と韓国の共同開催でおこなわれていたときのことだ。
両国の市民レベルの交流が活発になっていたが、ちょうどそのころ宮内庁で記者会見がおこなわれ、
天皇陛下のつぎのような発言が大きく報道された。
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。
また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております」
武寧王および聖明王との縁に言及されているのであるが、仏教の日本への伝来について語っておられることにも注目しなければならない。
そこには、さきにも紹介した嵯峨天皇以来の「写経の精神」を象徴天皇として大切にされるお気持ちがにじみ出ているように思われるからである。
私もかねて、「象徴」天皇の原像はさきにもふれたように平安時代にさかのぼり、
それが敗戦を契機に新憲法のもと戦後の象徴天皇制へと引きつがれたとみていたので、さきの岩井氏の見解には共感するところが多かったのである。
宮中祭祀への現天皇の精励ぶりも、そのようなお考えからきているのではないだろうか。
ところが一方、皇室の内部および周辺では、知られているように微妙な変化が進行しているようだ。天皇家の世継ぎをめぐる
「皇室典範」改正の論議がはじめられた直後のことだった。平成18年2月には秋篠宮妃のご懐妊がわかり、9月になって悠仁親王が誕生され、
それを機に男系・女系をめぐる論議がストップしてしまった。
しばらく時をおいて、こんどは女性宮家創設の議論がおこり、
いぜんとして皇位継承の問題が緊急に課題になっていることが世間にひろく知られるようになった。
世継ぎを男系にするか女系にするかの論議も、ふたたびむしかえされることになった。
そしてその背景に、長いあいだの懸案であった皇太子妃雅子さまのご病状問題が尾を引いていたことはいうまでもない。


今上陛下のご決意
その発端は知られているように、平成16(2004)年の皇太子による「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあった」という発言にあった。
さらに雅子さまの「適応障害」とその治療という問題があらたに浮上してくる。
治療を担当する「東宮職医師団」がつくられ、そのつど宮内庁から「病状」にかんする報告がおこなわれるようになった。
だが、思わしい治療効果がなかなかあらわれないまま事態は推移し、ついにその長期治療が昨年12月で10年目に入ったことが
公式に発表されたのだった。 その間、皇太子妃による宮中の儀式や祭祀への不参加が取り沙汰され、
公務である地方訪問の休止などで世間やメディアによるきびしい批判の目にさらされるようになっていく。
かてて加えて昨年の4月には、宮内庁の羽毛田長官(当時)が定例の会見をおこない、天皇・皇后両陛下のご意向として
崩御後の葬儀はこれまでの土葬形式をやめて火葬にしたい、とのお気持ちが公に伝えられることになった。
そのことを知ったとき、私は事態が大きく動きはじめているという予感が胸のうちにふくらんでくるのを覚えた。
もしもそういうことになれば、それは明治天皇以降の天皇葬儀にかんする伝統を大きく塗り変えることにつながり、
ひいては1000年におよぶ王権継受の理念に再定義を迫るような革新的な意味をもつようになるかもしれない、
少々大げさなもの言いにはなったけれども、そう思ったのである。
天皇がそのようなご決意をかためられた背景には、もちろんいつまでも国民に寄りそい、
国民とともに歩きつづけようとする象徴天皇としてのお気持があってのことと推察する。
明治天皇や大正天皇、昭和天皇のなきがらが巨大な山陵に土葬形式で葬られてきたことを思うとき、
そのお考えが戦後における象徴天皇の第二の「人間宣言」のようにさえ映るのである。明治の「墓埋法」の制定によって国民の多くは、
この世から旅立つときは火葬による方法を選ぶようになり、それが今日当り前の慣習になっている。
人生の最期をしめくくるにあたってそのようなご決意を公にされたのはよほどのことがあったからであると思うのである。
昨年、心臓のバイパス手術を受けられたことも、皇位継承の問題をも含めて、今後に考えておくべき課題がどこにあるか、
その思案を深められる機縁になったのではないだろうか。
ちょうどそのような問題についてあれこれ考えているときだった。昨年の11月になって、「週刊朝日」の編集部から
さきの岩井克己氏と「天皇家の危機」について話し合ってみないかという誘いの声がかかったのである。対談の内容は
多岐にわたったが、談たまたま、私自身思いもかけず、皇太子さまは思い切って「退位宣言」をされたらどうだろうかと
発言してしまった(平成24年11月23日号)。あらかじめ意をかためていたわけではなかったのだが、
ごく自然に口をついて出てしまったのである。
私はかねて、日本のこれからの天皇制のあり方を考える場合、すくなくとも二つの大きな問題があるだろうと思ってきた。
一つが、戦後民主主義と(象徴)天皇制の関係をめぐる問題であり、もう一つが、皇室における「象徴家族」の性格と
民主主義的な「近代家族」の性格にかかわる問題である。
前者の方からいうと、戦後まもない時期において戦後民主主義と天皇制の両者は、多くの国民の心情レベルでは互いに矛盾し
対立するものと意識されていたように思う。ところが70年近い時間が経過した今日、その両者がしだいに調和する関係を
とりもどしているようにみえる。世論調査の結果をみても、とくに若い世代を含めて象徴天皇制を支持する層が増えていることも見逃せない。
換言すれば、戦後民主主義と象徴天皇制の両者がある均衡点を探りあてようとしている、といってもいいだろう。
そしてその均衡点をどのようにして慎重かつ冷静に維持していったらいいのか、そのための知恵と工夫がいま求められているのではないか。
第二に、後者の「象徴家族」と「近代家族」の問題はどうだろうか。この両者の関係が、伝統と革新という言葉をあてはめて
考えればわかるように、いってみれば天皇家2000年の歴史にもかかわる難しい課題を抱えている。「天皇」という存在それ自体が
その二重性を背負いつづけてきたといってもいいだろう。そのような観点に立つとき、この平成の時代における天皇・皇后両陛下は、
一見矛盾し対立するようにみえる象徴家族と近代家族のあいだに調和の関係を築き、みごとな均衡点を見出されてきたように思う。
ところがそれにたいし、皇太子・同妃殿下のご家庭においては、その両者の調和の関係に揺れが生じ、
したがって均衡点も定まらないような状況が、さきにものべた通り、ときにきわ立つようになっている。
そこに「天皇家の危機」が静かにしのび寄っているのではないか。
宮内庁の発表、メディアの報道がその懸念をひろめ、国民の関心を呼ぶようになっている。
いま天皇家2000年の歴史ということをいったけれども、
すでに平安時代、宮中の正月行事は天皇を中心に神道と仏教が並立する形でおこなわれていたことを思いおこそう。
まず元日からの一週間は神職によって執行される「前七日の節会」そのあとの第二週が仏教僧によっておこなわれる「後七日の御修法」である。
神仏共存のシステムにもとづく宮中祭祀の、いわば原型であった。
それが明治の変革によって、神仏分離令が発せられて神道一色による宮中祭祀へと再編成されることになった。
それに呼応するように明治国家の骨格がさまざまな形で「近代」の洗礼をうけることになるのであるが、
しかし天皇家における「象徴家族」としての性格は、その政治的変革をのりこえて受けつがれてきたのだといっていい。
王権の正統性は宮中祭祀にもとづく「象徴儀礼」によって保証されていたのである。
それが敗戦をへて、戦後の象徴天皇制へと、今日の目からみればスムーズに移行していったとみえるのである。
いま皇室はようやく、成熟の時を迎え、その峠を越えようとしているのかもしれない。
平安時代の天皇・皇后は、その峠を慎重に足元をかためながらのぼってこられた。
お二人の辛苦みちた道のりが、現在の天皇・皇后の温容と親和の表情をつくりあげているのだろう。
象徴家族と近代国家のあいだに、国民のこころにとどく安定した均衡点を見出された結果であるとみることもできる。
その均衡点が、皇太子・皇太子妃の場合、もしかすると近代家族の側にぶれはじめているのではないだろうか。
さきにのべたせっかくの成熟の峠が、むしろ皇室における軋を演出しているとすれば、
それはわれわれの豊な社会が同じ成熟のときを迎え、「近代」そのもののあり方を問い直す時期に入っていることと関係があるかもしれない。
もしも皇室に危機がしのび寄っているとすれば、日本の社会が成熟の峠をいまだ十分にのりこえることができないでいるためなのだろう。
雅子妃の憂愁をおびた表情と、ときに示される孤独な影のなかに、私はそのような時代の変化に適応できないでいるお二人の、
内省する思いをかいまみることができるような気がする。そして宮内庁やメディアによって伝えられるような、
雅子妃の宮中祭祀への不参加報道が、かえって適応障害の「病状」をそのまま停滞させることにつながっているのではないかとも思う。
同時にそれが、皇太子における「近代家族」への傾斜を深めるとともに、「象徴家族」としてのあり方へのわれわれの不安と違和感を増幅させている、
その悪循環の輪がひろがりはじめているのではないだろうか。
しかし、今思い返せば鮮やかに蘇る光景があったことに気づく。20年前のご成婚のとき、皇太子さまが雅子さまにむかって
「雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」といわれた、あのまことに率直でさわやかな言葉、である。
そこには、いついかなることがあっても一個の人間としての愛をつらぬくという決意がこめられていたと思う。
いってみれば、結婚するにあたっての、皇太子における「人間宣言」であった。
たんに皇位を継ぐのではない、自立した人間として皇太子の地位を選びとる、という姿勢さえそこにはにじみでていたように思う。
そのご決意は平成16年、失意のなかにある雅子さまをかばう形で、
「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあった」という発言につながったのであろう。
それはたしかに、天皇・皇后をはじめ多くの国民を驚かす発言ではあったが、
皇太子の身になってみれば、ご結婚いらい一貫している態度であり、立場でもあった。
近代国家を維持しつづけようとする一途な思い、といってもいいだろう。
しかし現在、そのような皇太子ご一家のあり方にたいして、国民もメディアもかならずしも暖かい眼差しをむけているわけではない。
それがいい過ぎであるというなら、多少の不安とやや過剰な期待の目をむけているといいかえてもいい。そしてその眼差しがいつか、
冷たい非寛容な視線へと転じていくかもしれないのである。


第三の「人間宣言」として
率直に申しあげることにしよう。皇太子さまと雅子さまは愛子さまとともに、
いわば第二の人生を選ばれてもいい時期に際会しているのではないだろうか。
皇太子さまによる「退位宣言」である。象徴家族としての重荷から解放され、
新たな近代家族への道を選択して歩まれる「第二の人生宣言」といってもいい。
その人生の道はおそらく芸術と文化の広々とした森に開かれているにちがいない。
敗戦直後の昭和天皇による「人間宣言」、平成時代に入ってご自分の葬儀にふれられた現天皇の第二の「人間宣言」、
そしてもしも皇太子さまが退位のご決意を表明されれば、それは第三の「人間宣言」として国民のこころにひびき、
暖かな共感の波をよびおこすのではないだろうか。
そして、そのように選びとられた第二の人生の生活の場として、1000年の都であった京都の地ほどふさわしいところはないのではないかと
私は思う。天皇家のまさに父祖の地であった京都は、御所の森を中心に数々の寺社をその奥深いふところに抱え、緑したたる
なだらかな山々に囲まれた美しい都であった。その地に居を移すだけで、雅子さまの病状もゆっくりと回復にむかうであろう。
豊かな自然の環境に包まれ、自然な歩みのなかで快癒の実りを手にされるはずである。

いま、皇太子さまの「退位宣言」ということをいったけれども、これは具体的には弟君、秋篠宮殿下への「譲位宣言」を意味するだろう。
それがはたして、国民のあいだに、どのような反響を呼びおこすか、いまの私にははかりがたい。
けれども、皇太子さまのご発言と雅子妃の病状がひろく伝えられているなかで、弟君が控え目ながらそのつど意見をのべられ、
貴重な助言をお二人に与えておられたことがつよく印象にのこっている。
人間としての思いやりと逡巡の複雑なお気持があったと推察されるが、それでもそれをあえて口にされた秋篠宮殿下には、
兄君の窮地を助けようとする態度がにじみでていたように思う。お子さま方にたいする教育方針にも自立的な生き方がうかがわれ、
好感を寄せる人々も多いのではないだろうか。
兄君は文系の歴史、弟君は理系の生物と、分野を異にする学問に精進してこられたことも好ましい光景であった。
その秋篠宮のご発言と立居振舞いが、皇室における象徴家族と近代家族という二重の性格を均衡させる安定的な地点に、
より近くお立ちになっているように私の目には映っているのである。皇太子による寛大な「退位宣言」が、
その「譲位」へのご意見とともに秋篠宮に自然な形で受け継がれていくことを願わずにはいられないのである。
譲位とは、もともとは在位中の天皇がその「位」を譲ることを意味していた。すでに「日本書紀」にいくつかの事例がでてくるが、
その譲位時の法的な次第は嵯峨天皇以後の事例にもとづいて「貞観儀式」で定められている。それが明治の「皇室典範」で改められて
終身天皇制となり、廃止されてしまったのだという。
譲位は、平和裡に王権の継受をおこなう制度だったといってもいいのであるが、ここに登場する嵯峨天皇は、さきにもふれたように
今上天皇が皇太子時代に言及された「写経の精神」をまさに体現するタイプの天皇だった。ありうべき理想の象徴天皇のモデルであった。
重ねて、つけ加えておこう。今上陛下は、即位時の朝日新聞社の問い合わせにたいし、愛読書として宮崎市定の「雍正帝」をあげられていた。
雍正帝は康煕帝の息子で、父親以上に精励し、中国皇帝史でも父とともに屈指の名君とされてきた。その妃は、康煕帝の選んだ貧家の出身だった
という(福田和也『美智子皇后と雅子妃』文春新書、平成17年、78頁)。さきに紹介した「百済」との縁についてのご発言とともに、
今上陛下の幅広い国際感覚を示す、まことにさわやかなエピソードといっていいのではないだろうか。
ここであらためて、世紀の「退位宣言」として世界の耳目をあつめた英国のウィンザー公の例を思いおこす。
公は、みずから望む結婚の意志をつらぬき、王位と祖国を捨ててフランスに移り住んだ決断の皇太子であった。
公はフランスが国境をこえる芸術と文化の都であることを、誰よりもよく知っていたのかもしれない。
かつてわが国の歴史においても、その危機の転換点に、聖徳太子というさっそうとした皇太子が立っていた。
太子は旧態依然とした氏族社会のしがらみを打ち破って、十七条憲法を制定した人物として知られる。
その「憲法」の第一条には「和をもって貴しと為す」の言葉が出てくるが、
それは旧来の慣習や観念をのりこえ、新しい秩序をつくるための理念として主張されたものだったと、私は思っている。
聖徳太子は、あるいは未完の天皇だったかもしれない。しかしながら、
その一個の人間として積み重ねた「徳」が、まさに「聖」なる価値を担う象徴として後世への輝かしい導きの道標になったのである。



					
  • 最終更新:2017-02-11 16:37:50

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