皇太子さまに55歳のご覚悟をお聞きしたい!

週刊文春2015年2月26日号
皇太子さまに55歳のご覚悟をお聞きしたい!
東京大学名誉教授の御厨貴氏はこう話す。「皇太子が会見などて発信するお言葉は、
誰に向かって何を言ったらいいのか、はっきりしないという印象を受けます。
というのも、皇太子のお言葉には、過去の出来事を反芻するという『歴史回顧』の要素がないからです。
歴史との対話が欠如しているので、現代を生き、次代を担う皇太子としての生身の言葉として伝わってこない。
例えば、先の大戦や国内外の情勢、さらには、ご本人が取り組みたいとおっしゃった
『時代に即した新しい公務』などについて、具体的に何を思い描いていらっしゃるのかがわからず、
誰もが思いつくような“公約数的”な発言しか出てこない。
唯一、具体的なエピソードと実感を伴って語られるりは雅子妃と愛子さまのことだけです。
お言葉についての注目がそこにぱかり集まってしまうのは無理からぬことでしょう」
新しい公務については、人格否定発言のあった04年以降、繰り返し「これまでの公務を整理し、
時代に即した新しい公務ができれば」と発言されているが、「宮内庁では、湯浅利夫長官時代に参与を差し向け、
新しい公務について、皇太子の考えを聞く機会を設けたこともありました。
しかし、結局皇太子の目指すところはよく分からない。天皇陛下が一番案じられていたのは、
考えがあってのことではなく、安易に時流に縛られているだけではないか、という点でしょう」
(ベテラン宮内庁担当記者)
京都大学名誉教授・中西輝政氏は「皇太子としてのお言葉の重みを改めて認識していただきたい」と言う。
「天皇とは、仰ぎ見るものであり、それが日本国民統合の象徴であるということです。
全国民の上に立って『国民と共に歩む』ということが天皇制度の根幹にあるのです。
昭和天皇の玉音放送、今上天皇の東日本大震災に際したビデオメッセージ。
これは日本の天皇と国民が一体になった瞬間でした。こういった未曾有の事態に国民に寄り添い、
語りかけて下さる天皇皇后両陛下を頂きたいと願うのは、国民の自然な期待だと思います」
作家の三浦朱門氏は、天皇の存在こそ日本を知るための、物差しの役割を果たしていると説く。
「宮内庁から発表される両陛下の穏やかな御日常とは、天皇陛下が稲作をなさり、皇后さまが養蚕をなさるお姿です。
謙虚さのある慎ましい生活を国民と共に歩まれるお心の現れではないでしょうか。
皇室は不動であり、天皇陛下を仰げば現在の日本は過去と比べてどう変わり、
どの方向に変わりつつあるか分かるでしょう」
1989年8月4日。55歳の天皇は、即位後初めての記者会見を行い、淡々とした語り口調の中にも
はっきりと平成皇室の方針を打ち出された。
当時、取材に当たっていた皇室ジャーナリストの松崎敏弥氏が振り返る。
「憲法を尊重し、伝統に学び、現代にふさわしい皇室の在り方を求める、
という三本柱を明確に捉えておられました。
中韓を含めた外国訪問や、昭和天皇が果たされなかった沖縄慰問にも
強い意欲があるということをご自身の言葉で語られた。
現在の皇太子にこれほど立派な“所信表明”ができるでしょうか。どこか平板に見える皇太子のお言葉には、
内なる強い決意といったものが見えません。国民が感じるのは、療養の続く雅子さまに配慮しつつ、
思春期特有の不安定さを抱える愛子さまを守るのに精一杯な、夫や父のイメージだけです。
日本悠久の歴史の中でたった一人、第百二十六代の天皇になられるお方として、崇高な視座をお示し頂きたいのです」
今上天皇が、昭和天皇の“遺産”とも言える戦没者の慰霊について力強いお言葉を述べられたのは、
ご自身の戦争体験も大きかった。
天皇と学習院初等科の同学年で、最後まで疎開を共にした明石元紹氏が語る。
「1945年11月7日、皇太子殿下と私たちは疎開先の国鉄日光駅から特別列車に乗って東京に帰ってきたのです。
原宿の皇族専用のプラットホームに降りると、本当に驚きました。辺り一面焼け野原で何もなかった。
電信柱もなければ、東京中が見渡せるかと思うぐらい、建物がなかったですね。当時の殿下も
この光景を印象深くご記憶されたのではないでしょうか。
平和な時代にお育ちになった今の皇太子殿下は、先の大戦について実感を持たれることが難しいのかもしれません。
お言葉を拝見するとご家庭などに対する内向きなお優しさが目立っているように思いますが、
日本の近代史をより深く学ばれて、拠り所となるご活動をなさることが今後の課題でしょう」
今上天皇は皇太子時代から沖縄慰問を拠り所の一つとしていた。折に触れて訪問し、81(昭和56)年、
48歳の誕生日会見で「どうしても記憶しなければならない」四つの日として6月23日の沖縄戦終結の日を
挙げられたのだ。「沖縄が復帰を果たす前の63年、沖縄の子供たちを学校新聞の記者として本土に派遣し、
皇太子殿下(今上陛下)に会っていただきたいと考え、実現しました。それ以降、本土の生徒との
交歓会には70数回にわたりお出ましいただきました」(全国豆記者交歓会代表の山本和昭氏)
93年には歴代天皇として初めて沖縄県を公式訪問。当時、天皇皇后が全国植樹祭の出席に加えて、
沖縄戦没者墓苑などを訪れた慰霊の旅に対し、一部県民からは反発の声も上がっていた。
元沖縄県知事の大田昌秀氏はその後、赤坂御所で天皇とこんな言葉を交わした。
「『沖縄の人たちは皇室のことをどう思っているのでしょう』」とお尋ねになりました。
香淳皇后の母が、琉球を支配した島津家の出身であることにも配慮なさっていました。
私は陛下のご質問に、両陛下の車両に向かってTシャツ姿の農家の女性らが嬉しそうに手を振り、
深々とお辞儀した様子をお話ししました」
こうした天皇のお心遣いについて、前出の千代田関係者が解説する。
「沖縄をはじめ、広島や長崎、東北の被災地など傷ついた国内への暖かい目配りによって
どれほどの国民が癒されてきたでしょうか。
一方で皇太子は昨今の会見で、地球温暖化や生物多様性の減少などの世界の問題に触れていました。
もちろん大事なことですが、順番が違うのではないか、という印象が拭えません」
肢体不自由児の“家や学校”として、日本で初めて設立された養護施設「ねむの木学園」園長の宮城まり子氏が語る。
「94年、両陛下が即位された後に初めて学園をご訪問いただいたとき、子どもたちは
『お帰りなさい、両陛下!」と大声で手を振っていました。両陛下は『ただいま』と微笑みながら
応えてくださいました。実は、皇太子さまの頃から絵の展覧会に足を運んでくださっていたのです」
初めてハンセン病療養所を訪問したのは1968年の奄美和光園。皇太子時代に6カ所を訪れ、昨年で
全国の療養所全14カ所の入所者と懇談された。
14歳から多摩全生園に入所している平沢保治氏がご訪問当時を振り返る。
「77年に皇太子ご夫妻が来てくださった時、何のためらいもなく手を取って明るく声をかけてくださった
ことには、驚きと感動が入り混じった気持ちがしました。伝染性が強調され、厚生省の職員でさえ
感染を恐れていた時代でした。現代でも差別がなくなることはありません。
今の皇太子殿下が独身の頃、87年に一度お出でいただいた際、『殿下にふさわしい妃殿下と巡り合って
ご一緒に来てください』と申し上げました。入所者は、雅子さまとご一緒のご来園を心持ちにしております」
天皇が、思わぬ災害に遭って悲嘆に暮れる人々を慰問され、ひざをついて見舞われるのも皇太子時代からだ。
全国の災害情報にはいち早く対応されいてた。
「東宮御所に、たまたま私が参内していた日に地震がありました。
応接間に熱帯魚の水槽があって、水面が揺れたのです。陛下は地震だと気付かれると、
ぱっと電話を取り上げて、職員にどの位の地震が起きたかすぐ調べるように指示を出されました。
この時は別の部屋でお過ごしになっていた美智子さまから、内線で現状は大丈夫ですとの
ご報告の電話がかかってきました。いかなる時も日本国民の安全を気にかけておられるのだと実感しました」
(学習院の後輩・織田和雄氏)
“平成流”は一日にしてならず――。だが、今でこそ、国民から絶大な信頼を得ている平成流も、
昭和天皇の晩年は逆風のほうが強かったという。
「今上陛下は『行動あってこその象徴』。一方、昭和天皇の時代は、より天皇の神聖性が強かった。
今上陛下は当初、『少し軽い』と一部宮内庁内で囁かれていたのは事実です。ところが平成に入り、
雲仙普賢岳の噴火と火砕流をはじめ、奥尻島地震、阪神・淡路大震災と続いた大災害に対し、
一人ひとりに声をかけることで国民との距離が縮まっていきました。確固たる姿勢がいつしか
賞賛の声を大きくしたのです」(皇室ジャーナリスト・山下晋司氏)
もちろん、天皇の周囲には、皇太子時代からその信念を支え仕えた“皇室の藩屏”が数多くいたという。
「現在の東宮にも、そうした頼り甲斐のある藩屏たちがいるのならば『国民は天皇陛下のお言葉と
ご姿勢に強く心惹かれているのです。ぜひ皇太子殿下にも陛下の言行一致の精神を受け継いで頂きつつ、
分かりやすく雄弁に発信をしていただきたい』と殿下にご忠言申し上げるべきではないでしょうか。
藩屏たるもの、それくらいの矜持を持ち合わせていてほしいものです」(前出・中西氏)
今度こそ、国民は腹蔵無い提言をお伺いしたいのだ。



皇太子さまは55歳目前に
美智子さまと雅子さま、”伴侶”としての大きな違いとは?
2015年02月21日(土) 16時00分
〈週刊女性3月3日号〉
「現在の皇太子さまが55歳のときの陛下に比べて足りないのは、皇太子妃のお支えではないでしょうか」
と言うのは、ジャーナリストで文化学園大学客員教授の渡辺みどりさん。
「天皇陛下は、価値観を共有でき、公務をともにして、自分をたててくれる美智子さまという
伴侶を得たからこその現在があると思います。美智子さまは歴代皇后の役割を発展させ、
陛下に従い全国各地を訪れ、自然災害が起こればすぐに現地へお見舞いに出かけるスタイルを確立されました。
その一方で、雅子さまは病気療養という事情があるにせよ、結婚してからの半分の10年以上、公務がほとんどできていない状態です」
今年の4月は戦後70年の戦没者慰霊の旅で、太平洋の島国・パラオも訪問されることになっている両陛下。
「今年は、皇太子ご夫妻にも戦後70年に関連した公務が期待されています。
ほかには両陛下が平成になって始めた『こどもの日』と『敬老の日』に関連施設を訪問される公務を、
今年から前者は皇太子ご夫妻が、後者は秋篠宮さまが引き継がれることになっています」(宮内庁担当記者)
一方、両陛下が築き上げた他の公務やお出ましを、病気がちの雅子さまを支えながら皇太子さまは、どうお務めになるのだろうか。
「皇太子ご夫妻は、愛子さまが中学校に不登校ぎみであるという問題も抱えています」
と渡辺さんは心配顔だが、次のようなアイデアがあるという。
「例えば、雅子さまの名前を冠した女子小学生の英語コンクールはいかがでしょうか。
英語なら雅子さまがお得意の分野ですし、愛子さまを同伴させやすい行事で、教育的意義もあると思います。
雅子さまが中・高校生時代に熱中したソフトボール関連の公務もよろしいのではないでしょうか。
ソフトボールは2020年の東京五輪で、正式種目に復帰するかどうか注目されている競技でもあるので、関係者には励みになるはずです」
昭和、平成とそれぞれの時代や世代ならではのご苦労がありそうだが、
皇太子ご夫妻がさらに前向きな姿勢になれば、美智子さまも安心されることだろう。
http:// www.jprime.jp/tv_net/imperial_household/8442/




  • 最終更新:2017-05-27 15:42:44

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