田母神論文の歴史的意義

WiLL2009年1月号
田母神論文の歴史的意義
中西輝政(京都大学教授)

11月3日文化の日(明治天皇の天皇誕生日)、まさに皇居で文化勲章授与式が行われていたその日に、田母神前空幕長は都内で記者会見を開き、
自らの更迭について語った。しかし論文の内容については「誤っていると思わない」とし、「村山談話なるものが、本当に検証されて、
日本国民全員が納得できるものなのかは疑問がある」「(政府の歴史認識を)検証してしかるべきだと思う」と述べた。さらに、「このくらいのことを
言えないようでは、民主主義国家とはいえない。政府見解に一言も反論できないなら、北朝鮮と同じだ」と言い切った。
こうして田母神前空幕長は、持論を曲げることなく、謝罪を口にせず、国会への参考人招致には積極的に応じたいと答え、堂々の態度で会見を終えた。
そして11月11日、すでに民間人となっていた田母神氏を国会の参院外交防衛委員会に参考人招致したが、
なぜかNHKを含むすべてのテレビ局があえて中継を見送り、与野党も一致結束して「田母神氏の持論展開の場にさせてはいけない」ということで、
委員長自ら奇妙なほど田母神氏の発言の封殺に動いた。
質問者も本代である田母神氏の歴史観にはほとんど触れず、論文発表の「届けを出したか否か」という手続き問題に終始し、
同氏が議論を制し始めると、今度は質問をもっぱら浜田防衛相へ向け始めるのであった。
それは内閣、与野党、マスコミが一体となって、本来の歴史の検証から逃げ回り、国民の目にフタをして、
従来の「歴史観」(俗に東京裁判史観と言われるもの)を言論統制によって必死に守ろうとしている姿―
つまり「戦後レジーム」なるものの核心部分を白日の下に曝した光景だった。
しかし、そもそも彼らはそんなに心配することなんかなかったのである。
国会での質疑に先立つ11月7日、後任の外薗健一朗空幕長は就任後初の会見で、
田母神氏の行動が「国民の信頼を揺るがせた。反省し、深くおわびする」と謝罪、
再発防止に向けては「政府の政策、見解、方針を体現し、愚直なまでに実行していく」(共に11月8日北海道新聞)と発言した。
要するにこれは「これからは心を入れ替えて“村山自衛隊”になります」と言っているのである。
しかし、あの村山富市氏の精神を体現した自衛隊となれば、それこそ国民の防衛に対する信頼は地に落ちることになろう。
また、後任の空幕長は自らの歴史観について質問された際、《「政府の見解と同じだ」と強調した》(11月8日日経新聞)。
これらの後任空幕長の発言は、11月8日の朝日新聞社説「自衛隊 隊員教育の総点検を急げ」に非常に優等生的に沿ったものだと言える。
そしてこの後任者の会見に至るまでの政府の処理、自民党、その後ろにいる公明党の動きを見ていると、
自衛隊のありようが決定的に変わりかねない危うさを感じる。
つまり「村山談話」という究極の「戦後史観」が、日本を呑み込み、押し流し、国防の第一線までも危うくなりつつある。

この問題についてのマスコミの論調は産経新聞が中道であるほかは、ほぼ一色と言える反応であった。
そして、それこそ日本の近現代史を見れば明らかなように、日本のマスコミが一色に染まる時というのは、
大抵が間違いを犯すときである。これ自体、非常に危険な兆候だと言える。

11月3日朝日新聞社説「空幕長更迭 ぞっとする自衛官の暴走」は、
《こんなゆがんだ考えかたの持ち主が、こともあろうに自衛隊組織のトップにいたとは。驚き、あきれ、そして心胆が寒くなるような事件である。》
と筆を起こす、まさに「ぞっとする」社説だ。しかし、別の意味でこの社説には有益な部分もあった。
同社説は田母神論文の要旨を、
《「我が国は蔣介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者」「我が国は極めて穏当な植民地統治をした」
「日本はルーズベルト(米大統領)の仕掛けた罠にはまり、真珠湾攻撃を決行した」「我が国は侵略国家だったというのはまさに濡れ衣である」―。》
と並べ立て簡潔に内容紹介をしている点だ。これは、朝日がまさに問題にしている歴史観であるだけに、非常に要領よくまとめている。

私が「ぞっとする」社説だと述べた問題の個所は、次の部分である。
《これはもう「文民統制」の危機というべきだ。浜田防衛相は田母神氏を更迭したが、この過ちの重大さはそれですまされるものではない。
制服組の人事については、政治家や内局の背広組幹部も関与しないのが慣習だった。この仕組みを抜本的に改めない限り、
組織の健全さは保てないことを、今回の事件ははっきり示している。防衛大学校での教育や幹部養成課程なども見直す必要がある。》
ここまで踏みこんだものを読まされれば、戦前の歴史を知っている人間は、まさに「ぞっとする」ものと言わねばならない。
このような形で制服組の人事に政治が介入するというのは、共産主義国ならわかるが、民主主義であれば、どんな国にもない事態だ。

戦前、軍部の政治支配が始まる大きなきっかけとなったのは、昭和10年の真崎甚三郎・陸軍教育総監の更迭劇であった。
それは政治が軍トップ人事に介入し、その結果、軍部内の皇道派と統制派の対立を激化させ、
二・二六事件、そして軍による政治支配の確立へとつながった。日本人は、なぜ今に至るも、こうした本当の歴史の教訓を身につけようとしないのか。
それはきっと間違った「教訓」に必死にしがみつき固執しているからであろう。
戦前の日本で大正デモクラシー以降、軍部の中に統制派と皇道派など、いわゆる軍閥が生まれてくるが、
このことは統帥権の問題よりも、むしろ政治の不用意な軍への介入と無関係ではなかったのである。
さらに朝日新聞は「防衛大学校での教育や幹部養成課程なども見直す必要がある」と述べるが、
これはまさに「村山史観」で自衛官を教育しろと言っているのである。
それがいかなる結果を生み出すか。その恐ろしさがわからないようでは、およそ国防を論じる資格はないと言ってもよい。

田母神論文問題で年配の日本人が思い出すのは、1978年7月の栗栖広臣統合幕僚会議議長の事実上の解任問題であろう。
栗栖統幕議長は、「現行の自衛隊法には穴があり、奇襲侵略を受けた場合、首相の防衛出動命令が出るまで動けない。
第一線部隊指揮官が超法規的公道に出ることはありえる」と有事法制の早期整備を促したが、ときの政府はこれを
「超法規発言」であり「自衛隊の暴走」だとして彼を解任した。
ちょうどその解任の直後から、横田めぐみさんはじめ、多数の日本人が北朝鮮に拉致されていった。まさにその時、
工作員の侵入を薄々知りつつ、(警察が把握していた事件がいくつかあった)政府は何の対策も取らず、
その一方で「栗栖解任」だけはやはり電光石火の早技でやっていたのである。
この時も自民党政治は「目覚ましい意思表示」を示し、同時に有事法制整備の意図は全くないと、言明していた。
しかし、それから21年経った1999年にかねて唱えられていた緊急事態法と中心とする有事法制整備が
アメリカの圧力によって進められるようになった。控え目に言っても、栗栖氏は見事な先見の明を示していたのである。
このことを踏まえれば、田母神空幕長の更迭の真の動機が、国防方針や歴史観などではなく、国会対策、つまり権力の維持だったことが明確にわかる。

歴史論争は錯綜しやすいが、ここでは次の二点が重要な鍵なのである。
第一に、「日本だけが侵略国家ではなかった」という点だ。あのドイツでさえ、「侵略国家ではなかった」というのが、
ニュルンベルク裁判の大筋の結論である。ナチスによる「非人道的な行為」がホロコーストとして
厳しく裁かれはしたが、全体としてのドイツ国家が「邪悪な侵略戦争をした」と裁かれたわけではない。ドイツ国家は責任を免れているのである。
これを東京裁判と対比すれば、まさに日本だけが侵略国家という烙印を押されているのである。
あまつさえ、当時の列強と言われた連合国はどうだったのか。
田母神論文はまさにここを問題にしているのであって、この部分を読まなければ論旨を読み取ったとは言えない。
故意に無視しようとしている人は、「東京裁判史観」以外は一切、認めない、“守旧派”そのものだと言える。
第二に、こうした日本人の「東京裁判史観」なるものは、何によって支えられているのか。
その中心点は、国際的な観点から物事を見ようとしないという点である。つねに「日本が何をやったか」だけを問題にして
「他国がどうだったか」をほとんど完全に無視して、戦後六十年経っても本来的な歴史の議論に蓋をする。
端的に言えば、歴史の個々の事実をどう見るとかは関係なく、日本の行った行為しか見ようとしないのが
「東京裁判史観」の真髄で、いまだに日本の大半の歴史学者、インテリ、マスコミがそこに捕らわれ、
一歩も抜け出せない。なぜ比較の中で日本の近代史を論じようとしないのか。
さらに今日、「東京裁判史観」を支える中心的な論者の中には、自らを「昭和史家」と称する人が多い。
彼らはつねに昭和史しか問題にしない。しかし昭和史を論じるなら、明治・大正を無視して正しい歴史観は得られない。
ここに「昭和史」と「東京裁判史観」の本質的な親和性が生まれる背景があるのである。「昭和史」という言葉自体が、
すでに国際的な視野がなく、「東京裁判史観」と不即不離に融合しており、何かを根底に共有している。
その「昭和史」についての細部の叙述のせめて半分、いや四分の一でも当時の諸外国のあり方について論じるべきで、
その上で戦争観、歴史観を論じるべきだろう。当然のことながら、戦争には相手がいるのだから。
このことを戦後の日本人はすっかり忘れ、「歴史」を論じてきたのである。
その最もたるものが「昭和史」なるものだった。
満州事変の後、国際連盟を脱退し、統制派、皇道派が出てきて、二・二六事件に至る歴史について、
今日、こうして「昭和史」を読む日本人は驚くほどよく知っているが、その同じ時に中国大陸はどうだったか、
ソ連やイギリスは何を考えていたかには全く関心を向けない。少なくとも、真珠湾前夜のアメリカの世論は
どのようなものだったか、には関心があってもよさそうなものだが、これも全く論じようとしない。
これはいったいどういう現象なのだろうか。故意に国際的観点から物事を見ることを阻む何かがあるのか、
と思うほど不自然なことである。これが現代日本の歴史観の最大の問題だと言える。
他の国がやったからといって日本がやってもいいことにはもちろんならないが、
しかし日本だけが侵略国家と言われる筋合いはないというのは、こういうことなのである。
すなわち、いかなる道徳も、それが成り立つ第一条件は相対性ということであり、それを否定して公平と公正は有り得ないからである。

二十世紀の戦争に関しては各国の重要史料は、戦争後も長い間、自国の国際的な利益を損ないかねない資料を秘匿し続けているのである。
今も多くの史料が非公開のままであることも知っておくべきだろう。それを敗戦国である日本の、
即座位に占領軍に押さえられた史料だけを使って描かれた歴史を「史実として確定している」というのは、
何かにしがみつこうとしている、と言わざるを得ない。

(日中戦争は)戦後の日本では、しばしば盧溝橋事件が「発端」とされきたが、「盧溝橋」は小競り合いであって、
その後、いったん停戦合意ができているのだ。大事なことは、一ヵ月余り後の第二次上海事変こそが日中全面戦争の始まりだということである。
蔣介石は北支での不利な局地戦を回避して、有利な上海に日本軍を引きずり込み、そこで日中全面戦争を仕掛けたのである。
この点については論争の余地はない。
このことを踏まえれば、「蔣介石により日中戦争に引きずり込まれた」という田母神論文の論旨がよくわかるはずだ。
そして、真摯な歴史家ならば、盧溝橋事件ではなく、上海事変こそを日中戦争の真の重要なスタート地点として取り上げるべきなのに、
なぜか盧溝橋にばかり集中している。

まず言えることは、宋哲元の第二十九軍の中には、たくさんの共産党細胞が存在したということだ。
また、外国人記者との正式会見の場ではないが、劉少奇が中共の工作員教育の講義で
「盧溝橋事件は中国共産党が仕組んで行った」という主旨のことを述べたという史料は、以前からある。
さらにもっと重要な資料として、蒋介石が任命し、上海南京防衛司令官であった張治中が晩年に書いた
回顧録がある。この中で、張治中が一年以上前から抗日戦争の戦略を策定していたことを告白している。
それは、日本人居留民や陸戦隊を攻撃して、文字通り上海で日本を罠にかけ大陸の内部に引きずり込もうと
仕掛けたのであり、その実行準備は1936年にはっきりと動き出していた。日本との戦争を上海で引き起こし、
欧米の関心を引きつけ、日米対立を惹起しながら、どんどん内陸へ日本を引き込んでいくという大戦略を、
蒋介石の意を受け張治中は立案していたと自ら書いている。
実際には、張治中の意図に反して日本がなかなか乗ってこないため、中国はあえて上海に条約に則って
駐留していた日本海軍の大山勇夫中尉を殺すという「大山事件」を起こしたり、租界で爆弾騒ぎを起こしたりという調略と挑発を繰り返した。
それでも日本が乗ってこないため、正面から日本海軍の陸戦隊に攻撃を加えたのが、第二次上海事変の発端で、
これが日中戦争の真の始まりなのだ。そしてこの張治中こそ、蒋政権の中に潜入していた中国共産党の
秘密工作員でもあった。このことは今日、はっきり立証されているところだ。
さらに言えば、周知のように中国共産党は当時の一次史料を今日も一切、外部には出さないが、今後もし、
ソ連崩壊のように中国が崩壊して多くの史料が出てきたらどうなるか。あの戦争についての歴史観はおろか、
その基になるべき重要な歴史資料すら、まだ多くは闇の中なのである。

もう一つ、田母神論文の歴史観として「大いに問題」とされているのが朝日新聞社説の言うところの
「日本はルーズベルト(米大統領)の仕掛けた罠にはまり、真珠湾攻撃を決行した」という部分であろう。
この部分に、「昭和史」的視点あるいは「戦後史観」に捕らわれている人、つまり新しい研究動向、
アメリカにおける従来からの議論、ルーズベルト大統領の外交の暗部などを見ようとせず、さらに始まっていた
欧州の戦場との関連など国際的視野を持たない人は、大きな違和感を感じるようである。
しかし、ルーズベルトが対米攻撃に打って出るよう体系的に日本を追いつめたことは明らかであり、それを「罠にはめた」と言うのではないか。
もちろんアメリカでは、「偉大なルーズベルト」を守らなければならないという心理が今も強く働く上、
あの戦争は突然に真珠湾を奇襲攻撃されて始まったというのは今でもアメリカの「国是」でもある。
例えば冷戦下においてどのような軍備がどれくらい必要で、どういう法律が必要かと考える時、
ソ連に真珠湾と同じように奇襲攻撃をされることを想定するとき、つねに「真珠湾」が持ち出されてきた。
つまり「真珠湾奇襲を忘れるな」という教訓を元に作られていたのである。
戦後アメリカの世界覇権体制の支柱は、日米安保による日本駐留米軍基地に見られるように、
「前方展開戦略」と称されている。それはなぜ同盟国を守ることがアメリカの国益になるのか、という点について、
いきなり自国領土が攻撃されるのを防ぐため、なるべく「前方」で守り、まず奇襲攻撃を受けるのは、
海外の同盟国にしておく、という考え方に基づいている。9・11テロで見事にこれは覆されたが、いまだにこの国策は残っている。
このようにして見ると、アメリカにとって「真珠湾の教訓」が崩れるのは大変なことであるから、アメリカの歴史家の
多くは真珠湾はルーズベルトにとっても「奇襲」だったことを強く守ろうとする。そのアメリカにおいても、
田母神氏と同じ歴史観を持っている歴史家が多数存在する。いわんや、イギリス人やドイツ人はもっと公平に客観的に真珠湾攻撃を見ることができる。
しかし戦後日本の歴史家や知識人の多くは、その点であまりにもひどい「アメリカ追随」だったと言える。
アメリカ人が書いた歴史書しか参照せずに、ルーズベルトと日米関係を論じている。ルーズベルトと日米関係を
論じる以上、日本もアメリカもいわば利害関係人である。当然、「正統派」とされるアメリカの歴史書は
それを「罠にはめた」と言うのではないか。差し引いて読み解く必要がある。

あの頃の対日政策はアメリカの場合、国務省と同時に財務省や海軍情報部が戦略決定、つまり外交にも大きな役割を演じていた。
アメリカの対日政策は、今でもそうだが、海軍を中心とした国防総省がかなり大きな発言権がある。
戦前の対日政策については、とくに海軍情報部の役割は大きかった。一番典型的なのは、日本が三国同盟を
結んだ直後の、1940年10月7日付の文書「マッカラム覚書」というものだ。これは海軍情報部の日本課長であった
マッカラム少佐が書いた文書で、今から8年ほど前にはじめて発見されたものである。

ルーズベルトの対日政策を見るとき、特別に重要な部署であった海軍情報部の対日責任者、マッカラム少佐が
1940年10月に書いたこの覚書は、簡単に言えば「三国同盟を結んだ日本はアメリカが政策転換(欧州参戦)を行う上で
非常に都合のよい位置に自らを投げ入れた。日本を追いつめていって日本から先に攻撃に出ざるを得ないような事態を
作り出せば、ルーズベルト大統領の代々の悩み(アメリカ世論が欧州参戦に反対という問題)が解決できるだろう。
その為には次のような政策がある。第一に…」というような主旨で八項目を挙げている。
その八項目のほとんどはその後の一年で、ほぼ実施されているが、一番典型的なのは「在米日本資産凍結」と、
オランダやイギリスと一緒になって行った「対日石油禁輸」である。明らかに、これを行うと「日本は必ず暴発する」という考え方で書かれている。
これは一つの史料にすぎないが、ルーズベルト自身が「私は今から日本を追いつめます」とか「日本を罠にはめます」とか
書いたものがあるはずもなく、そのことから考えるとこれはホワイトハウスに直結した人たち(マッカラムとルーズベルトは
特に個人的に深い関係があった)が作った非常に有力な史料だと言える。
あるいは、ルーズベルトの信任あつい陸軍長官スチムソンは1941年10月、アメリカは第二次世界大戦への参戦を可能にするために、
米海軍の基地があるフィリピンを日本に奇襲させるよう仕向けるべきだ、とはっきり述べている(Stimson Diaries,October6&16,1941)。
さらには11月25日の閣議でルーズベルトは「問題は、いかにして日本に最初の一発を撃たせるように追い込んでゆくかである」
と語っている(同右(この転載文中では同上)、Nobember25,1941)。
その上、ハル・ノートを用意していることが明らかになった時点で「我々は裏口のドアから参戦するのだ」と
いうことを閣僚同士が話している史料も残っている。

田母神論文ではこのようなことが、きちんと述べられている。
《ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第一撃を
引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。》
これは先のスティムソンの日記と同じことを述べており、どこが間違っているのか私にはわからない。
ただし、このような歴史観を聞かされると、無知な日本人はこういうことを考えるかもしれない。「そんなことを言うと、
日本の戦争責任を軽減することになるから不健全である」「日米関係に悪い影響を与える」「『罠に嵌めた』ということが
陰謀論のように聞こえて、胡散臭い。そんな策略のようなことを卑しくも大国であるアメリカがやるものだろうか」等々である。
しかし、そうした考えこそ歴史の真実から目を背け、議論を封殺することになっている。

田母神論文では、ヴェノナ文書(VENONA files)についても触れ、次のように説明する。
《さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争と突入し三百萬人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、
日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずりこむために、アメリカによって
慎重に仕掛けられた罠であったkとが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルという
アメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。》
先に蒋介石もコミンテルンによって動かされたと述べているように、「コミンテルン」(狭義のコミンテルン以外に、KGBの
前身たるソ連情報部そしてGRUすなわち赤軍諜報部を含む)という存在が日本と大東亜戦争を考えるとき、非常に大きな
存在なのだが、田母神論文はこれを総称して「コミンテルン」の果たした役割の重要性を繰り返し訴えているのである。
これはまさにソ連崩壊後に出てきた「コミンテルン」ないしソ連諜報機関の活動に関する文書が、近年広範に
読めるようになった新しい歴史研究の成果を踏まえて論文を書いているということだ。
田母神論文は《1933年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には三百人のコミンテルンのスパイがいたという。》
と述べているが、これも事実で、1995年に初めて機密解除された「ヴェノナ文書」に繰り返し書かれており、「ヴェノナ」についての
多くの研究書も世に出始め、今では「いや五百人はいた」とか「二百吾十人がせいぜいだろう」というような数の論争になっているのが現状である。
蒋介石もルーズベルトも「コミンテルン」に動かされていたが、忘れてならないのは、実は一番動かされていたのが
日本の近衛内閣であったことだ。そのことを近衛文麿は昭和20年になって知ったため、すでに自らの政権における
コミンテルンの暗躍から八年近くも経ち、時すでに遅かったのである。
しかし近衛文麿は、「近衛上奏文」を書いた。この「近衛上奏文」について、秦郁彦氏をはじめ、半藤一利氏、保阪正康氏などの
在野の歴史家はもとより、アカデミズムすなわち歴史学会の名だたる近代史家が、今に至るも十分な扱いをしていない。
これはいったいどういうことなのか。
「近衛上奏文」は、近衛首相自ら天皇に対して「上奏文」という極めて重要な形式をとって提出した文書であり、
しかもその内容については東條内閣以降、戦争の成り行きを非常に懸念していた吉田茂などの国際情勢に最も精通している
人たちが参加して、その案文を作ったのである。これを一顧だにしないかのような姿勢で戦後史家は通り過ぎ、
あたかも見て見ぬふりをしている。「近衛上奏文」を素直に読めば、戦後史家たちの昭和史の扱い方も大きく変わってくるはずなのだが、
「近衛上奏文」を“近衛の被害妄想”として無視に近い扱いをしているのは、怠慢でなければ意図的な歴史の隠蔽ではないかとさえ思える。
この上奏文は周知のように、日本の内閣の中枢や軍の大きな動きの背景に、実はその中に紛れ込んでいた「コミンテルン」の
工作員たち、例えば尾﨑秀実やゾルゲのような者が数多くいて、「そのような見えない力に私は動かされていたように思います」
という主旨で、かつての自分のせいけんの中にも多くの隠れ共産分子がおり、日本を罠に陥れていったことが
今になってわかってきたとして、あえて自らの不明を詫びつつ、しかもそれを天皇に上奏したものである。
これはゆるがせにできないものだと思うが、「近衛上奏文」の背景あるいは近衛、特に吉田茂らが言わんとしたことを
きちんと検証した戦後の歴史家は一人としていないし、彼らにそうしたことを気づかせた根拠に関し国際的に
どのような資料があったのかを調べた人もいない。
これには戦後、隆盛を誇ったマルクス主義史観からの反撃を恐れ、遠慮してきたことが大きな要因だったと思われる。
強大なマルクス主義史観の歴史学会や、それに影響されるマスコミ出版界に遠慮して、ソ連の工作が日本を動かしていたとか、
尾﨑秀実は日本を裏切っていたことを取り上げ、戦前の日本政府内に潜行していた共産系の工作について悪口を言うことができなかった名残であろう。

日本の戦後史家たちの、東京裁判で暴露された日本の陰謀については全て認めるが、それ以外、特に連合国側については
「陰謀の可能性はない」と決めつけるゆな考え方を、私は「陰謀隠蔽史観」と呼んでいる。「正義の側」は一切陰謀は行わない、
陰謀を行うのは全部、侵略国、悪い国だったという歴史観と言ってもよい。
少なくとも戦後日本の歴史家たちは、この「陰謀隠蔽史観」に毒されすぎていると私は思う。真に国際的な視点を持てば、
どこの国でも陰謀は行うし、アメリカ、イギリス、ロシアの戦争の歴史はほどんど陰謀のない歴史はない、ということがわかる。
中国史などはあたかも「陰謀の連鎖」で成り立っているようなものである。
そのような「陰謀史観」をこれほどまでに嫌悪するのは一体なぜなのかと考えると、一つは冷戦と関係があるように思われる。
どちらかというと左翼の歴史家が「陰謀史観」に近いことを言い出したという経緯があるからだ。ソ連のほうが正しくて
アメリカが間違っているとする人が、「これはCIAの陰謀だ」などと言い出したために、それに対して政府の利権とかかわりのない
良心的な保守、あるいはバランスの取れた実証を心掛ける歴史家たちも過度にそれに対する強い偏見を持ってしまったのではないか。
不確かな陰謀説に引きつけられるのは、もちろん初歩的な誤りだが、他方、過去のタブー感からその可能性を過度に
否定しようとするのも、同様に誤りと言わなければならない。いずれも実際の世界とは違う世界を見ようとしてしまっているわけで、
その意味でも、今これだけ新史料が公開されているのであるから、「決めつけ史観」こそが一番問題だと言えよう。

論文で田母神氏はあえて空幕長tぽい立場から指摘したかった点は以下の部分であろう。
《東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後六十三年を経てもなお
日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこう
というものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、
また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。》
そして田母神氏は、日本がこのような国になってしまっているから、北方領土や竹島問題も全く主権の発動ができない、
北朝鮮に拉致された自国民がいるのに国際社会で普通の対応が取れない、と述べているのである。さらに続けてこう述べている。
《このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。》
これが田母神論文の一番の柱であるからこそ、この論文には大きな意味があるのだ。日本の現状に真摯な関心を持つなら、
揚げ足取りをするような批判は、この論文に対し行うべき本来の批判ではない。
論文の重要な個所をいま一つ挙げると、
《自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。》
という部分である。軍が「外交交渉の後ろ盾になる」のが、まさしく普通の国際的な思考であり、その思考が拉致問題に
直面する今の日本にとっても不可欠なものになっているのだ。そのために諸外国は戦争が起こるとは思えない時にも、
軍隊をしっかり維持し、毎年大枚の予算をそこに割いているのである。
《諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお
大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。》
と田母神氏は嘆くが、この「我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えた」とは、まさに「村山談話」そのものだ。
つまり、この村山談話の偏向した歴史観と現在の日本の対外政策が表裏一体となっていて、どうにもならず、
日本ががんじがらめになってしまっている。そのことについて、田母神氏は強い危機感を持っているのである。
そして、私も全く同じ危機感を感じている。これは、まさに「今そこにある危機」なのである。この日本の切迫した国家的危機について
私的な場で意見表明することは、いかなる立場の日本人であれ批判されるべきではない。
にもかかわらず、「あの戦争を美化しようとしている」などと言う人がいるが、果たして論文を読んだのかと問いたい。
中国や韓国がそう言うのであればわかるが、日本の知識人がなぜこの論文を素直に読めないのかと暗澹たる気持ちになる。
特に田母神論文の結論部分は、多くの人が共感していると信じたい。
《日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について
誇りを持たなければならない。(中略―以下、カッコ内は中日註)嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ
(日本のやったことには)悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。
(その上でなお)私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである(からだ)。》
この論文は読んだ時の「受け止め方」が問われているのである。日本人の一人一人がどういう受け止め方をするか、
それが日本という国の今後に大きく関わってくる。

言うまでもないが、民主主義においては、軍人は国民に選ばれた政府の判断に従って行動すべきである。
では、田母神論文が「政府見解と異なる」と一刀両断される根拠であるらしい「村山談話」とは何か。
「村山談話」とは、一種の政治的クーデターによって出来上がった談話である。平成7年に村山内閣が「もうもたない」という
事態になって、投げ出そうとした時のことだった。
社会党の筋金入りの左派である野坂浩賢官房長官が、「辞任してもよいが、とにかく8月15日に謝罪国会決議を行おう」と
しきりにすすめた。ところがその「謝罪国会決議」は自民党の議員が反対を表明して決議を行うことができなかった。
こうなると社会党内では、「何のために政権をとったのか」ということになる。日米安保と自衛隊合憲論を受け入れて
自社さ政権を作る時、社会党内での指導部の最大の弁明は、「自民党に謝罪決議をさせることを条件として飲ませてある」というものだったからである。
そこでやむなく野坂官房長官は村山首相にプレッシャーをかけて談話を出させたが、首相の談話だけでは単なる一声明に
過ぎないため、「閣議決定」にして後世、日本をずっと縛るということを考えた。そこでさんざん根回しを繰り返し、
それこそ「陰謀」めいた手段まで弄して、談話を閣議決定することとした。
特にこの時に野坂官房長官が智恵を巡らせ、閣議の際に自民党の閣僚は反対する可能性があるため、縛りをかけて罷免の脅しを
しかるべき筋から流して、強いプレッシャーをかけたと言われる。少なくとも言外に「もし反対したら罷免する」という
非常に強い脅しをかけて、閣議の決定に持ち込んだのだ。事が個人の歴史観に絡む以上、まさにこれこそ、「良心の強制」ではなかったか。
その時の自民党の閣僚も情けない。罷免するということならば、罷免されればよかったのである。事が歴史観に関わる時、
責任ある政治家は決して「政治判断」を挟んではならない。社会党の首相が誰が見てもとんでもない談話を出したのであり、
しかも自民党内にも強い反対があって国会決議すらできない状態だったのである。それを国会決議より拘束力のある
閣議決定するというのは大変なことだという点に、プロの政治家なら気づいて当たり前であるのにまんまと了承し、あっという間に閣議決定したのだ。
いずれにせよ、このような経緯があるため、「村山談話」は、その出生に不備あり、と言うべきであろう。
時の閣僚の何人かが、今でも「一種の政治的クーデターだった」と言っているのはこのような理由からである。
この談話は戦後五十年経って今や外から何の強制もないにもかかわらず、「日本が全面的に戦争責任を負わなければならない」と
日本から言い出したということである。
つまり、連合国側には何の落ち度もなかった、ということを日本は公式に認めてしまうことになり、今後、百年、二百年、
もっと言えば千年の歴史にこれを刻むことになるかもしれないということだ。それは明らかに真実ではないのに。

「村山談話」のようなものが政府見解と称され、日本の政治や外交において幅を利かせるようになった遠因は、
遡れば中曽根内閣から始まったのだと言える。
中曽根首相は昭和61年9月、藤尾正行文部大臣が月刊誌の対談で「日韓併合は韓国側にもいくらかの責任がある」と発言したことを受け、
即座に更迭したのである。これは、自民党内閣にかつてない「目覚ましい」行動だった。いま思うと、あの時に日本は一線を越えたのだった。
当時は「村山談話」はもちろんなく、今ほど中国や韓国がうるさく口を出すこともなかった。自民党は単独で大きな過半数を有し、
他方で冷戦が続いていたので日米関係も無風で、むしろ中曽根首相は日米緊密化の先頭に立っていた。そのような自民党内閣が
あえてなぜ、藤尾文相更迭という思い切ったことを行ったのか。
歴史発言での罷免、という藤尾文祖更迭は、事実上、戦後初めての出来事であった。それまでは自民党の政治家は
「保守反動」で、とかく「戦争美化」の発言をするものだ、と思われていた。もちろん、行き過ぎると社会党が国会を止めるが、
しばらくするとまた、何事もなかったように政治が執り行われた。大江健三郎氏が「曖昧な日本」と言ったのは、この辺りを指していたのだろう。
しかし、中曽根内閣以後、日本は曖昧ではなくなった。どんどんと左のほうへ、つまり落ち着いて歴史の真実を再検証するのではなく、
過度に贖罪意識だけが強くなっていったのである。こういう歴史観の偏向が昭和60年以後、自民党政権の中で、
急速に強まったために、それから十年後にとうとう「村山談話」のようなものが出てきたのである。
であれば、「村山談話」だけを問題にしても何も解決しない、保守とは言えないまでも自民党支持層、経済界、読売新聞や
日経新聞のようなマスコミまでもが、あそこで一世代前よりも変わってしまったのである。
その分水嶺が中曽根内閣にあったということを今、思い返してみなければ、「村山談話」にようなとてつもないものが
単なる永田町の「クーデター」で出てきて、いまだに命脈を保っているということを説明できない。
そして今、日本の戦後を最も「純化」して、とうとう極北のところに、日本は至ってしまったと言える。その現れとして、
朝日新聞社説に見られた「防衛大学校での教育や幹部養成課程なども見直す必要がある」というような「暴走」が公然と語られるようになったのである。
具体的な政策を閣議決定したのなら理解できるが、一つの歴史解釈を政府の権力によって「絶対のものだ」と決めつけてしまって
延々と踏襲し、その挙げ句、この偏向史観に従わないようなら一般自衛官や防大生も処罰すると締め上げる流れが浮上しているのである。
これは言論弾圧も甚だしい。そして明らかに人権蹂躙につながる。
「村山談話」に適合する教育を大々的に行え、ということになれば、国防の第一線は明らかに崩れる。自国のことを
「世界に類のない悪虐の国」と思っている軍人が国防に対する責務を果たせなくなるのは明白だからである。
中曽根内閣で歴史観をめぐり更迭された藤尾文相から田母神前空幕長まで、彼らは日本の「人柱」なのだ。
戦後日本では、国のために真実を語れば更迭される、ということで、それこそ何人もの崇高な「人柱」が延々と続いてきたのである。
先の戦争は未曾有の敗戦であったから、戦略的なミスや政治の間違い、あるいは戦場での「悪行」も数々あったであろう。
田母神論文も繰り返しそれを認めている。それでもなお、田母神氏を含め多くの人々が処罰されてきた。なぜ、そこまでやろうとするのか。
これは何かをひどく恐れている、としか思えない。「恐れ」に基づく思想ほど不健全なものはない。戦後日本が滅びるとすれば、
軍国主義によってではなく、間違いなくこの「恐れ」によってであろう。
そもそも戦略の誤りについて、正しい戦史教育を受けることは、本来の戦略能力をつけるために軍人教育には特に重要である。
しかし、村山史観では到底、不可能だ。
もう一つ、書画国の軍人教育で高く位置付けられているのは、国の歴史についての教育だ。防衛の責務を果たすための、
しっかりした精神を築くためにはどうしてもそれが不可欠なのである。これは「愛国心教育」と言い換えてもよいだろう。
この二つを考え合わせれば、「村山談話」で教育された自衛官が国防を担えるか、答えは明らかだろう。
何よりそれは正しい歴史観ですらない。自衛隊員だけでなく、国民全体に与える悪影響もはかり知れない。
いまや村山談話の見直しが避けられなくなっているのである。

近い将来、在日米軍はおろか、太平洋のアメリカ軍を含む東アジアの軍事バランスも、かってないほど大きく変わるはずだ。
中国、ロシア、北朝鮮に対抗する日米の抑止力というごく足元の話を考えてみても、日本はついにギリギリのところへ来たのだ。
一変し始めた世界の中で日本が否応なく「自力で立ち上がる」ことができるか、国としての大きな決意、出直しを今、戦後初めて求められているのである。
その日本が世界の一極として立ち上がる意志の根源はどこにあるのか。それは、「自分の国は自分で守るしかない」ということである。
そのことに気づいた時、では「自分の国とはどのような国なのか」という問いが必ず発せられる。
まさにそれを田母神論文は問うているのである。そして彼は「人柱」となった。
国防の第一線にいる自衛官たちは、我々とは違い、今でも入隊する際に危機に臨んでは「自らの身は顧みず」という宣誓を行っている。
逃げればすむ我々とは違うのだ。その彼らの中から次々と「人柱」が出る状態を続けていって、果たしてこの国の存立といのはかなうのか。
最近は、国防とは「国民の生命と財産を守ること」だと言ってすましている安保政策通りの政治家が多くなったが、
その前に守るべきものがあることをすっかり忘れている。国防とは、まず「国家の独立であり主権を守ること」なのだ。
そしてさらに国防とは、国家としての「精神的な立脚点」を守ることでもある。今の言葉で言えば、「アイデンティティー」だ。
そしてその中には、自らの伝統、文化、歴史に対する誇りがあるはずだ。つまり、この日本という国の大きな精神の支柱を守ることも国防の役割なのである。

田母神論文がその最後で強調している《日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。》という部分は、
まさにこの誇りを語っているのである。
かつてウインストン・チャーチルが、日本の敗戦が明らかになったときに、「日本はこれで百年立てなくなるだろう」と言ったとされる。
このチャーチルの言葉で「百年」という部分に力点があるとすれば、それはまさにヨーロッパ史の常識を踏まえたものであった。
つまり、国がボロボロになるような敗戦をしたら、その国では百年間、人の心は戻らない、と古くからヨーロッパでは考えられてきたからだ。
「我々にあの悲惨な敗戦を経験させた国家」ということで、自分の国を呪い、厭い続けるわけである。残念ではあるが、
これは人間の自然な感情の発露だろう。しかし国家というものは、自分を呪い続ける国民を抱えていては、いずれ立ちゆかなくなる。
これもまた自然の摂理だと言える。
我々にとって百年は長いように感じるが、もうすぐ戦後七十年になろうとしているのだ。その「苦難の百年」の中で、
立ち上がろうと「戦い続ける系譜」の中に自分がいれば、それで十分なのではないか。
所詮我々は、大きな流れの中にあり、その中のただ一点に立っているだけなのである。しかし、それでよいのである。
戦い続けること、それ自体が誇りであるからだ。
日本は、「地下の水脈」によって生きる国である。それが脈々と流れ続けている限り、この列島は滅びない。
それはやがて必ず、滔々と流れる大河となって、そして大地を変える。
江戸時代の林子平や高山彦九郎、あるいは会沢正志斎や佐久間象山、そして吉田松陰という人たちが連綿と続き、
ときに「人柱」となって後世を準備していった。こういう「戦い続ける人の系譜」がいつの時代も絶えないということが、
日本という国の持っている極めて奥深い、そして力強い生命力をよく示している。
今回の田母神論文は、その意味で非常に喜ばしく、「日本滅びず」、との感慨を深くするものであった。

  • 最終更新:2018-06-22 20:56:16

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