沖縄タイムスの「不都合な真実」

沖縄集団自決に新証言
沖縄タイムスの「不都合な真実」
藤岡信勝(拓殖大学教授)
鴨野守(ジャーナリスト)

新証言との出合い

 沖縄戦で集団自決の軍命令を出したと書かれ名誉が毀損されたとして、
慶良間列島の二つの島の守備隊長とその遺族が大江健三郎と岩波書店を相手取って起こした名誉毀損・出版差し止め請求訴訟の第一審判決が、
三月二十八日、大阪地裁で行われる。
(※深見敏正裁判長は『書籍に記載された内容の自決命令を発したことをただちに真実とは断定できない』としながらも、
『(命令の)事実については合理的資料や根拠がある』と認定。名誉毀損の成立も認めず、原告側の請求をすべて棄却した。」)
判決日が迫る中で、座間味島の宮平秀幸証言が注目を集めている。(略)
調査の結果、宮平証言の信憑性はますます確実だという心証を固めるとともに、この真実を戦後六十年以上にわたって隠蔽・封印し、
今なお休みなく歴史の捏造に余念がない沖縄のメディアの異常な振る舞いを目の当たりにした。(略)

宮平は、沖縄戦当時十五歳の防衛隊員で、本部壕で日本軍の伝令役をつとめていた。
奇しくも座間味の証言者として著名な故・宮城初枝の実弟にあたる。昭和二十年三月二十五日の夜、村の幹部が自決用の弾薬を求めに本部の壕に来た。
その時、宮平は梅澤隊長の二メートルそばでその一部始終を聞いていた。梅澤隊長は弾薬の提供を断っただけでなく、
村の幹部に「自決するな」と言い、忠魂碑前に自決のために集まっていた村人を解散させるよう「命令」していた、というのだ。
この新証言は二月二十六日にチャンネル桜で放映され、二十三日付産経新聞が独自取材でスクープし、
三月一日発売の雑誌『正論』四月号に藤岡が、同じく『諸君!』四月号に鴨野がレポートを書いた。世界日報は三月三日と八日の紙面で詳細に報道した。
しかし、沖縄のメディアは黙殺を決め込んだ。(略)


「自決するな」と命令

▽本部壕前にて
 昭和20年3月23日、アメリカ軍による空襲が始まりました。アメリカ軍は26日に上陸するまでの三日三晩、
ものすごい爆弾、ロケット弾、艦砲射撃による攻撃を仕掛けてきて、それこそ島の形が変わるような激しいものでした。
 いよいよ明日は敵軍が上陸してくるという25日の夜、正確な時刻はわかりませんが、9時と10時の間ぐらいのときでした。
野村正次郎村長、宮里盛秀助役、宮平正次郎収入役の村の三役と国民学校の玉城盛助校長が戦隊本部の壕に来ました。
私の姉で役場の職員の宮平初枝と、同じく役場職員の宮平恵達もついてきました。ただし、村長は少し遅れて来たように思います。
 これに戦隊長の梅澤裕少佐が対応されました。壕の入口にはアメリカ軍の火炎放射器で焼かれるのを防ぐため、水で濡らした毛布を吊るしていました。
その陰で、私は話の一部始終を聞いていました。隊長とは2メートルぐらいしか離れていません。
当時、私は15歳で、防衛隊員として戦隊本部付きの伝令要員をしていました。
 助役は、「もう、明日はいよいよアメリカ軍が上陸すると思いますので、
私たち住民はこのまま生き残ってしまうと鬼畜米英に獣のように扱われて、女も男も殺される。
同じ死ぬなら、日本軍の手によって死んだほうがいい。
それで、忠魂碑前に村の年寄りと子供を集めてありますから、自決するための爆弾を下さい」と言いました。
すると、梅澤隊長は、「何を言うか!戦うための武器弾薬もないのに、あなた方を自決させるような弾薬などありません」と断りました。
助役はなおも「弾薬やダイナマイトがダメならば毒薬を下さい。手榴弾を下さい」と食い下がりました。
 そこで梅澤隊長がこう言いました。「俺の言うことが聞けないのか!」よく聞けよ。
われわれは国土を守り、国民の生命財産を守るための軍隊であって、住民を自決させるためにここに来たのではない。
あなた方に頼まれても自決されるような命令は持っていない。
 あなた方は、畏れおおくも天皇陛下の赤子である。何で命を粗末にするのか。
いずれ戦争は終わる。村を復興させるのはあなた方だ。夜が明ければ、敵の艦砲射撃が激しくなり、民間人の犠牲者が出る。
早く村民を解散させなさい。今のうちに食糧のある者は食糧を持って山の方へ避難させなさい」
 村の三役たちは30分ぐらいも粘っていましたが、仕方なく帰っていきました。

 これは、名誉毀損訴訟の被告・大江健三郎にとって致命的な意味を持つ証言である。
大江は陳述書の中で、どういう主張を展開していたか。
隊長が集団自決の命令を下したという証拠はどこにもないし、命令をくださなかった証拠は、
すでに隊長に武器をもらいに行った村の幹部の中の唯一の生き残りである宮城初枝の証言で決着済みとなっていた。
 そこで大江は、「自決するな」という、集団自決を積極的にとめる命令を下さなかったことが「自決命令」に相当するという詭弁的論理を展開した。(略)
 住民はすでに米軍が来たら自決しなければならないという状況になっており、
これは時限爆弾のようなものであって、条件が整えば爆発(=決行)するものであったから、
積極的に「自決するな」と命令しなかった隊長は「自決命令」を下したのと同じになるというのである。
 隊長は集団自決の中止命令を下さないという「決断」をしたのだ、などと大江は書き、
法廷では「もし隊長が中止命令を出していたなら賞賛に値し実名を明記する」という趣旨のことを語っていた。
 ところが、この度の宮平証言によれば、梅澤隊長は、「自決するな」と止めただけでなく、
集団自決のために忠魂碑の前に集まっていた住民を解散させるという、大江の要求を百パーセント満たす行動をとっていたのである。
これによって多くの住民が命を救われたのであり、梅澤隊長は、宮平とその家族のみならず、多くの生き残った住民にとって命の恩人だったことになる。
 梅澤隊長の解散命令は、忠魂碑前で村長によって住民に伝達され、実行された。(略)


「解散命令」を出した村長

▽忠魂碑前にて
 (略)
 村の三役たちがやってくると全員が総立ちになりました。三役たちは、忠魂碑の下で、何ごとかしばらく相談していました。
私はそこから7~8メートル離れた井戸のそばのタブの木のところにいました。助役の声か収入役の声かわかりませんが、
「村長、もうあともどりはできませんよ」と言うのが聞こえました。
 やがて「こっちに来なさい」とあちこち隠れている人たちを呼んだので、皆村長のそばに集まって行きました。
村長ひとりが忠魂碑の階段を上り切った一つ下の段に立って、「これから軍からの命令を伝える」と言いました。
集まった人々は、いよいよ自決命令だと思っていたのです。
 すると村長は、「みなさん、ここで自決するために集まってもらったんだが、
隊長にお願いして爆薬をもらおうとしたけれど、いくらお願いしても爆薬も毒薬も手榴弾ももらえない。
しかも死んではいけないと強く命令されている。
とにかく解散させて、各壕や山の方に避難しなさい、一人でも生き延びなさいという命令だから、ただ今より解散する」と言いました。
5分くらいの話でした。
 助役や収入役は、忠魂碑の下のところで、集まった人々に何ごとかを話していました。
村長が解散命令を出したのは午後の11時ころです。時計は持っていませんでしたが、お月様が出ていたので、大体の時刻を判断しました。
 村長の話が終わったあと、照明弾が落ち、続いて忠魂碑の裏山の稜線に艦砲射撃の弾が3発落ちました。村人は三々五々帰って行きました。(略)


「生き延びなさい」

▽整備中隊の前にて
 そこで家族7人で1時間以上歩いて大和馬(やまとんま)にある整備中隊の壕に行きました。
整備中隊の内藤中隊長、池谷少尉、木崎軍曹、落合軍曹、藤江兵長の5人が出てきて、
「このさなかに何しに来たの」と言いましたから、「軍から自決命令が出ているといって忠魂碑前に集まったけど、解散になった。
それで、よく知っている兵隊さんに万一の時は殺してもらおうと思って参りました」と言いました。
兵隊たちに殺してもらうというのは、母と姉の案を私が代弁したのです。
 すると「軍の命令なんか出ていないよ。死んではいけんぞ。死んで国のためにはならんよ。
国のため、自分のために生き延びなさい。
連合艦隊が逆上陸してきたら、万が一救われるチャンスもあるから、家族ひとりでも生き残りなさい」と言われました。
 「食べ物がないんです」と言ったら、「持っていけ」といわれて、
軍が保管していた玄米、乾パン、乾燥梅干しをクツ下の形をした袋に詰め込めるだけ詰め込んで渡してくれました。
 それからまた、1時間以上もかけて山を越え、戻ってきて第2中隊の壕のところまで来ると、爆撃が激しくなり進むことができません。
第2中隊の田村少尉が、しばらくここに避難しなさいといわれ、金平糖、ミカンの缶詰、黒糖アメをもらいました。そのころは、夜も白々と
明けかけていました。この兵隊さんたちは、アメリカ軍上陸後、敵陣地に斬り込み、皆戦死してしまいました。(略)
 話の途中で、母・貞子とラジオ出演したことを思い出し、そのテープを探してくれることになった。
翌日、見つかったと連絡があり、借りることができた。
それは地元のラジオ局が一九八八年六月に放送した「女性ジャーナル・私の戦争体験」という番組で、
昌子(※秀幸の妹)は最後のところで、整備中隊に行った時の記憶を次のように語っていた。

 《自分の家に民宿していた木崎さん、藤江さん、落合さんに家族揃って会いに行きました。
その時に、みんな玉砕していますから、うちの母が「死にたい」と言って泣いたのを覚えています。
兵隊さんは「生きられるだけ生きてちょうだい。もう、どんなことがあっても子供に手をかけることはできない」と言いました。
兵隊さんたちは、敵に向かって斬り込みをかけて亡くなったと聞いています。》 

 宮原秀幸の証言は、行動をともにした幼い妹のかつての証言記録によって、ものの見事に裏付けられたのだ。
宮平の家族にとどまらない。当時の極限状態の中でも、住民に「生き延びなさい」と励ました日本兵の例はたくさんある。
そして、彼等自身の多くは玉砕していったのである。この基本構図を覆すことは誰にもできない。


会見を握りつぶした地元紙
  (略)
 宮平は、昨年の教科書騒動の際、地元の新聞社が書いているような、
集団自決に軍の命令や強制があったとする真っ赤な嘘がこのまま定着することに激しい憤りと危機感を感じていた。
沖縄タイムスと琉球新報に電話をかけ、本当のことを教えるから取材にくるように何度も求めたが、一切無視された。
 他方、藤岡は、三年前の六月四日、東京で開いた自由主義史観研究会の会合についての苦い経験があった。
会合で、渡嘉敷島の集団自決に関連して、村が援護金を得るため、赤松隊長のニセの自決命令書をつくったという、衝撃の照屋昇雄証言を公表した。 
 この時、沖縄の二紙「沖縄タイムス」「琉球新報」は複数の記者を会合の取材に派遣しながら、
肝心の照屋証言については、ただの一行も報道しなかったのである。従って、沖縄では一部の関係者以外、未だに照屋証言は知られていないのだ。
 だから、今回の宮平証言についても、沖縄では社会的に不存在ということにされかねない。
社論に都合の悪いことは一切報道しないというのでは、独裁国家のプロパガンダであって、社会の公器たる新聞の名に値しない。
記者会見をやっても二紙は握りつぶす可能性が高い。しかし、記者会見をして証言者が社会に向けて堂々と公表したという事実は歴史に残る。
 三月十日 (略) 宮平をはさんで、藤岡とつくる隗の杉原誠四郎副会長の三人がテレビカメラの放列の前に座った。
宮平は文書には目もくれず、約三十分間、堂々と貴重な体験を述べた。
 今の時期に証言を決断した理由については、こう語った。
「死んで天国で報告するよりは、生きているうちに語らないと悔いを残すと思ったから」
 そのあと、藤岡がコメントし、杉原も短い発言をした。
質問をしたのはNHKと共同通信の記者だけで、記者会見に至る経過の確認と、「自決」という言葉が当時使われていたかどうかというものだった。
「自決」という言葉は当時から使われていた。
たとえば、助役の宮原盛秀は「みんなで自決しましょうね」と家族に言っていた(妹・春子の証言。三月七日)。
 地元の二紙の記者は、しつこく質問をしてくるのかと予想したが、期待は全くはずれてしまった。
この重大な証言を前にして、記者には質問する気力すらない。完全無視を決め込む方針であることは明らかだった。
案の定、翌日の地元二紙にはただの一行も書かれていなかった。
 しかし、会見当日の夕方、NHKと沖縄テレビがローカル枠のニュースで流した。情報封鎖の一角が崩れたのである。
宮平のもとには早速、同年配の村出身の友人から、自分たちが言いたくても言えないことを言ってくれたことへの感謝と賞賛の言葉が寄せられた。
翌日、本島から尋ねて(ママ)来て礼を言う高校の校長もいた。
 宮平証言は、確実に歴史の事実となったのだ。地元二紙は報道さえしない、いや、できないということを事実で示した。


沖縄タイムスが島民を扇動

しかし、沖縄の地元紙は記者会見という形で社会に向けて公表された情報を握りつぶしただけではない。
沖縄タイムスは座間味島の集団自決の真実が明るみに出ないよう、執拗な隠蔽工作を、極めて卑劣な方法でおこなっていたのだ。
以下、その工作が暴露された経緯を少し立ち入って書く。

一月二十四日、藤岡は新しい歴史教科書をつくる会沖縄支部の主催で、「沖縄戦『集団自決』と教科書検定」と題して講演した。
資料を六十部用意したのだが、倍の人数が集まり、地元の新聞、テレビも取材に来た。
翌日の琉球新報は「集団自決は尊厳死の一つ」という見出しで藤岡の主張のポイントを書き、客観的に報道した。珍しいことだ。
他方、沖縄タイムスは無視を決め込んだ。
翌日、二十五日、先に述べたように、旅行会社が主催する座間味・渡嘉敷のツアーに合流した。
三時に那覇の泊港から高速艇に乗って、四時十分に座間味港に着いた。
桟橋を渡り切った所で、二人の島民が近づき、「藤岡さんですね」と聞く。
「はい、そうです」と答えると、それぞれ手に持った紙を私に渡した。
一人の男が「座間味島の集団自決についてちゃんと事実を調べて発言して下さい」と言った。私は、「そのようにします」と答えた。
この人は宮里芳和という人物で、居酒屋を開く傍ら、村の観光課に嘱託で勤務し、観光案内などをしているという。
また、琉球新報の通信員もしている。記念写真を撮りましょうと誘うと応じてカメラに収まった。
もう一人の中村毅は、写真に写るのは拒否した。
ところで、宮里らが私に文書を渡すところを横合いからちゃっかり写真に撮っていた人物がいる。
見ると、沖縄タイムスの吉田啓という記者だ。教科書検定問題で時々私の携帯に電話を掛けてきた男で、前日の講演会にも参加していた。
私達の乗った高速艇に密かに乗船して、真っ先に降り、待ち伏せしてシャッターチャンスを狙っていたのだ。
藤岡は総てを瞬時に了解した。これは沖縄タイムスが仕組んだ芝居だった。
翌日の新聞には、「座間味島民が来島に抗議」という記事が載るのだろうと思った。
中村が藤岡に渡したA4一枚の文書は、前日の藤岡講演についての琉球新報の記事に言及し、
その末尾は、「座間味村民は、あなたがたを歓迎しません!!」と結んであった。
この人がなぜ座間味村民を代表できるのかわからないが、これを見てツアー参加者の一人、新潟県柏崎市議の三井田孝欧が早速村役場に電話をした。
モチはモチ屋、機敏な反応だ。三井田が、「村は観光客を歓迎しないんですか」と抗議したからたまらない。
観光課から女子職員が、私達が宿泊するホテルに謝りに来た。観光客が来なくなったら村はお手あげなのだ。
ホテルのすぐ隣が埠頭で、文書を渡した宮里芳和の経営する居酒屋だった。
よい機会なので、その日の夜、十数人で表敬訪問することにした。
宮里の還暦祝いと称して大いに盛り上がった。宮里は昭和二十三年生まれだから、戦争は知らない。
「軍の命令があったかどうかはわからない」と、彼はしきりに弁解した。
本当のことはこれから調べなければならないと言う。その通りだ。
今後とも事実を明らかにするよう、お互いがんばろうと確認してお開きとなった。
ところで、この宮里との酒宴の場で藤岡は、「どうして私達が四時十分着の高速艇で島に着くことが分かったのですか」と質問した。(略)
「謝花さんから電話があった」と答えた。

謝花直美。沖縄タイムスの編集委員であり、集団自決教科書検定騒動の世論工作の中心人物である。
同誌に署名原稿も沢山書いている。反日感情むき出しの女性であると聞いている。
最近、岩波新書で『証言 沖縄「集団自決」-慶良間諸島で何が起きたか』という本を出した。
彼女がこの仕掛けの指揮を執っていた。宮里は琉球新報の通信員であるだけでなく、沖縄タイムスのヒモもついていたのだ。
十時ころホテルに戻って携帯電話をチェックすると、吉田記者から四件も留守電が入っていた。
こちらから電話すると、「村民が港で申し入れをしたのを取材しました」と言う。
なぜわざわざそんなことを断るのかが、すぐにわかった。
埠頭で吉田記者が勝手に写真を撮るのを、ツアーのメンバーでチャンネル桜のキャスターをしている井上和彦がとがめて口論となった。
吉田は「逃げるわけではない」と弁解しつつ、あわてて高速艇の帰りの便に乗り込んで行った。
彼はあとで、無断で写真を撮ったとねじ込まれるのを恐れて、藤岡に了解を求めようとしていたのだ。
藤岡は「記事にするのは構わないが、覚悟をして書きなさい」と答えた。


沖タイの「不都合な真実」

果たせるかな、翌日の沖縄タイムス長官に〈藤岡氏の訪問に座間味村民抗議/「軍命・強制は事実」〉という見出しの記事が載った。
写真はなかった。よほど井上の抗議が利いたものとみえる。記事の最後はこう結ばれている。
《抗議した宮里芳和さんは「私は二十年以上、体験者から聞き取り調査をしたが、
『集団自決』に軍命、強制があったことは間違いない事実だ」 と話した》

前夜、宮里が言っていたのとまるで違う内容だ。沖縄タイムスは、本人が言ってもいないことを自由自在に書くことができるのである。
これこそ、現在進行形の歴史の偽造である。沖縄タイムスは、こういうウソ記事を書いただけでなく、
沖縄のメディア関係者の間に、「島民の猛抗議に逢って(ママ)藤岡だけは座間味島に上陸できなかった」という、まことしやかなデマまで流した。
沖縄タイムスは、さらにもう一つ別のことをしていた。
翌日二十六日の朝から、一行はホテルのミニバスで島内の集団自決に関わりのある施設や壕の跡地を回った。
忠魂碑からの帰り道、学校の校舎の陰に潜んでいる若い学生風の男を見かけた。沖縄タイムスの記者に違いない。
他にも一人、島内で同じ風体の人物に出会った。私達が何処に行き、誰と会ったかを監視しているのである。
謝花に克明な報告が行っているのだろう。
三年前、自由主義史観研究会の「沖縄プロジェクト」で現地入りする前も、
地元二紙が社会面のトップで記事にし、歴史を歪める調査団が来ると反対派の高嶋伸欣が県庁で記者会見まで開いて警戒信号を発した。
昨年十一月三十日、つくる会が記者会見した時も、「慶良間に行く予定はあるか」というのが、記者が真っ先に聞いた質問だった。
予定がないと答えると、安心したような顔をする。

読者の皆さんは、沖縄タイムスがなぜ、私達の動向にこれほど神経を尖らせるのか、おわかりだろうか。
彼等は、集団自決に軍命令も軍の強制もなかったことを、誰よりもよく知っているのである。
そして、そのことを決定的に証明できる証言者が座間味に居ることも知っていたのである。
結論から言えば、宮平秀幸に調査団を会わせないことが、沖縄タイムスにとって最大の目的だった。
宮平は沖縄タイムスにとっての「不都合な真実」を知る、またそれを証言するだけの勇気を持ち合わせている、おそらくただ一人の人物だった。
宮平証言こそは沖縄タイムスにとっての時限爆弾だった。彼等が執拗に同行取材を要求するのも、実は誰に会うかを監視するためだった。
宮里芳和は、外部から島に調査に来る人に対し窓口となる、役場の観光課の嘱託職員だ。
鴨野も初めて座間味を訪問した時、宮里の案内で島内を回った。
宮里は、外部の記者を宮平に会わせないようブロックする任務を与えられていた。
ある新聞記者が、宮平に会いたいというと、彼はそれを妨害している。
ツアー一行が座間味に着いた時、宮里に指示して抗議文を渡させたのは、謝花のとった窮余の一策だった。
しかし、よりにもよって、その一番会ってほしくない人物に、私たちは偶然、巡り会ってしまった。
沖縄タイムスにとっては、最悪の展開である。これを藤岡が仕組んだ「やらせ」だという文芸評論家がいる。
一つだけ、教えてやろう。日本松に差し掛かったとき、一行の予定では、「昭和白鯱隊之碑」はカットするつもりだった。
予定より時間がおしていたからだ。藤岡も実は、三年前に見ていたので、是非とも訪問したいという程の熱意はなかった。
ところが、ホテルのバスの運転手さんが、せっかくだから是非見ていくように強く勧め、それではということになった。
もし、この時、強く勧められなければ、こういう事態の展開にはならなかった。
だから、林の中の即席インタビューが終わった時、宮平と藤岡は、
どちらからともなく「これは、英霊が引き合わせてくれたのだ」という同じ言葉を口にしたのだった。
三月九日、埠頭で宮里は藤岡に向かって「島に来るな」という暴言を吐いた。調査の妨害工作の失敗をきつくとがめられているのだ。


証言者の人権を守る戦い

沖縄タイムスは、今後、どのような手を打ってくるだろうか。考えられることを列挙しよう。
第一は、宮平証言の証言内容に対する攻撃で、これには、
①宮平の過去の証言との矛盾をつくもの
②宮平の他の家族の証言との矛盾をつくもの
③他の住民の証言との矛盾をつくもの  の三種類がある。
第二は、証言内容は批判しにくいので、迂回して、宮平への個人攻撃を仕掛け、間接的に証言の信憑性を薄めようとするものである。
これの変形として、藤岡・鴨野の立ち回り先に両名の悪口を吹き込み、間接的に宮平の悪評を立てるという方法もある。
第三は、宮平の家族やその家業に圧力をかけるという方法である。最も卑劣なやり方であり、こういうことは断じて許されない。
しかし沖縄タイムスは苦し紛れに、こういう汚い手を使ってくる可能性がある。

三月十一日午前、那覇市内のホテルで謝花の講演会があった。丁度よい機会なので、私たちは連れだって拝聴した。
冒頭、三年前の自由主義史観研究会の「沖縄プロジェクト」が集団自決に関する攻撃の発端であった、という歴史観を述べた。
講演後、藤岡が、なぜ前日の記者会見をタイムスは一行も報じないのか質問した。謝花は質問に直接は答えず、宮平の母・貞子が
『座間味村史・下巻』(一九八九年)に証言している内容と食い違うと言った。 (略)
そんなことは、こちらでは総て織り込み済みである。
三月十四日、宮平と相談して、三月十日の記者会見で発表した「証言」の補足を、つくる会を通じて発表することとした。
その中で十項目にわたって貞子証言の間違いを指摘している。
貞子は記憶力のよい女性で、村史の民族編などにも証言を提供しているようだ。その記憶力を、秀幸は間違いなく遺伝的に受け継いでいる。
しかし、貞子の証言には考えられないような間違いがある。そこからは一つの推測が仮説として浮かんでくるが、今回はこれ以上触れないこととする。

今回の一連の調査・取材を通して、人間の美質の大きな要素は、「勇気」という徳であることを、繰り返し考えさせられた。
(略)

WiLL2008年5月号

  • 最終更新:2017-02-19 11:43:05

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