昭和天皇の直筆原稿見つかる

昭和天皇の直筆原稿見つかる まとまった状態で初めて
2019年1月1日04時58分
昭和天皇が晩年、御製(ぎょせい、和歌)を推敲(すいこう)する際に使ったとみられる原稿が見つかった。
近しい人が保管していた。直筆を知る歌人も本人の字だと認めた。
「宮内庁」の文字が入った罫紙(けいし)29枚、裏表57ページ。
鉛筆でつづられた歌が少なくとも252首確認できる。欄外に注釈や書き込みもある。
まとまった状態で直筆の文書が公になるのは初めて。専門家は「人柄を深くしのぶ一級の史料」としている。
保管者は匿名を希望しており、今後、研究機関など適切な場所に原稿の管理を委ねることを検討している。
朝日新聞は保管者らへの取材を重ね、1月7日で昭和天皇逝去から30年となる節目を前に、
昭和天皇の歌を研究する所功(ところいさお)・京都産業大名誉教授(日本法制文化史)に協力を求め、共同で確認、分析した。
昭和天皇の歌の晩年の相談役で直筆を見たことのある歌人の岡野弘彦さんに筆跡と内容を、
昭和史に詳しい作家・半藤一利さんにも内容を確認、評価してもらった。
その結果、筆跡、文体、内容から29枚はすべて昭和天皇によるもので、
1985(昭和60)年ごろから病に伏す88年秋までに書かれたとの判断で一致した。
所さんの調査によると、昭和天皇の歌は宮内庁侍従職編の歌集「おほうなばら」や、宮内庁の「昭和天皇実録」に計870首が掲載されている。
今回の原稿には、それらに掲載済みの歌の推敲段階とみられるものが41首、未掲載のものが211首含まれていた。
題材は、戦争や家族、地方訪問など多岐にわたる。

あゝ悲し戰の後思ひつゝしきにいのりをさゝげたるなり

これは昭和天皇の最後の公式行事となった88年8月15日の全国戦没者追悼式に寄せた歌で、
約310万人の国民が亡くなった先の大戦への思いが「あゝ悲し」と表現されている。
86年4月29日の85歳の誕生日にあった在位60年記念式典の際はこう詠んだ。

國民の祝ひをうけてうれしきもふりかへりみればはづかしきかな

大元帥として開戦や敗戦を宣明した昭和天皇。
60歳の時に「われかへりみて恥多きかな」、70歳では「かへりみればただおもはゆく」と歌に詠んでおり、通底する思いがうかがえる。
原稿の欄外には「この義式は國の行事なれどこれでよきや」と記されていた。
「筆者は本人以外あり得ないだろう」〈所功・京都産業大名誉教授の話〉
これまで側近の日記などは公表されてきたが、ご本人の直筆の原稿が公になるのは初めてで驚きだ。
まとまった状態で大切に保存されていたことは素晴らしい。筆跡は昭和天皇の署名と矛盾なく、
「きさきは皇后のこと」などの表現、記述の内容からも、筆者は本人以外あり得ないだろう。
私の知る保管者と昭和天皇の関係からも疑いようがない。
推敲段階の和歌には平和や国民、家族への深い思いが率直につづられ、人柄が改めてしのばれる。
几帳面に旧字体を使い、武骨につづられた文字にも人柄がにじみでている。
在位60年記念式典の「はづかしき」という1首からは、国家国民のために尽くす自らの役割を自問自答しておられることが推察される。
1929年に張作霖爆殺事件を巡って田中義一首相を叱責(しっせき)し辞任に追い込んだ事件から、
立憲君主として自らの言動を律した昭和天皇は、戦後、その抑制的な態度が「戦争を止められなかった」と批判されることになる。
還暦、古希の時の歌と合わせて考えると、国民のために務めを果たせてきたのか、生涯にわたり深い内省の中にあったことが伝わってきて胸に迫る。
https:// www.asahi.com/articles/ASLDZ538RLDZUTIL00Q.html

人柄にじむその直筆 昭和天皇、激動の半生は歌と共に
2019年1月1日06時59分
平和を願う心、旅の思い出、親しい人との別れ――。昭和天皇が晩年つづった和歌の原稿に、
激動の半生への述懐や、日々の思いが残されていた。
余白をも埋める肉筆に几帳面(きちょうめん)な人柄もにじむ。歴史研究の資料として貴重だと、専門家は指摘する。

いつのまによそぢあまりもたちにけるこのしきまでに(のうちに)やすらけき世みず

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1988年の終戦の日に寄せた歌=迫和義撮影

1988(昭和63)年8月15日の終戦の日に寄せ、昭和天皇はこんな歌を残していた。
所功・京都産業大名誉教授は「戦後40年余りたっても、世界では争いが絶えない状況をはかなんだ歌ではないか。
昭和天皇にとって日本と世界の平和はつながっていたように思える」とみる。
陸軍大将として日露戦争を戦い、後に学習院長を務めた乃木希典(のぎまれすけ)とのエピソードを詠んだ歌もある。
(以降有料記事)
https:// www.asahi.com/articles/ASLDZ53F7LDZUTIL00R.html

「陛下の字ですね」作歌の相談役が語る逝去直前の出来事
2019年1月1日07時01分
昭和天皇が晩年、御製(ぎょせい、和歌)を推敲(すいこう)する際に使ったとみられる原稿が見つかった。
宮内庁御用掛として昭和天皇の作歌の相談役を務めた歌人、岡野弘彦さん(94)は、
今回見つかった原稿を「陛下の字ですね」と語り、昭和天皇が「生涯歌と共にあった」と振り返った。
昭和天皇は未発表のものも含めると生涯で1万首はお作りになったと思う。
ご日常の出来事をこまごまと歌に詠まれ、生涯、歌と共にあった。
作風は簡明で天皇たる独特の格調があり、今の日本人の心にも響く。
私は昭和天皇の直筆を見たことがある。お隠れ(逝去)になる数カ月前、88年秋のこと。
徳川義寛・元侍従長がやってきて、昭和天皇が終戦の際の感想として詠まれた
「爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも」を、
病床で7~8通りに推敲(すいこう)した紙を持ってきた。
「この歌の表現を心ゆくまで整えておきたい」とのことで、
今回見つかった宮内庁の罫紙(けいし)のような紙に、直筆で記されていた。
 その中の「身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて」
が「一番よろしいと思います」と言うと、
徳川さんは「お上(天皇のこと)もこれで安心なさいます」とほっとして帰られた。
今回の原稿も陛下の字ですね。見覚えのある歌もある。一つの事柄にいく通りもの歌を詠んだり、
丁寧な注釈があることからも、一つひとつの歌を丹念につくられた跡がうかがえて、
歌が本当にお好きだったことがわかる。
ご生前は発表するものが選抜されたが、今となっては全てが貴重な作品。
昭和史の核であった方の気持ちが表現されており、誰でも読めるように整理して発表してほしい。
     ◇
〈おかの・ひろひこ〉 94歳。歌人。
宮内庁御用掛(1983~2007)として昭和天皇や天皇家の和歌の相談役を担った。
https:// www.asahi.com/articles/ASLD0562SLD0UTIL00K.html

昭和天皇の和歌直筆草稿
250首、大半が未公表
象徴や戦争への思い吐露
昭和天皇が晩年、和歌を推敲する際に使ったとみられる草稿が見つかった。
大半が未公表の歌だ。保管者から託された朝日新聞社が1日、一部を報道陣に公開した。
昭和天皇の和歌の相談役で、直筆を見たこともある歌人岡野弘彦さんは
「昭和天皇自身が書かれたもので間違いない。見覚えのある歌もある。
推敲を何度も重ねた丁寧さがにじみ出ている」と指摘した。
他の専門家も「歌の背景となった昭和天皇の思いが見て取れる。戦争や象徴への思いの一端が伝わる
貴重な史料だ」と評価している。
朝日新聞によると、草稿には、1985~88年に詠んだ和歌が、宮内庁の罫紙29枚に表裏で57ページ分書かれている。
鉛筆で縦書きされ、題材は戦争や地方訪問など多岐にわたる。
保管していたのは昭和天皇に近い人物で匿名を希望。
分析に当たった京都産業大の所功名誉教授(日本法制文化史)によると、草稿には約250首あり、
うち約200首は未公表だった。
86年4月に催された在位60年式典の際にはこう詠んだ。
 國民の祝ひをうけてうれしきも ふりかえみればはづかしきかな
所氏は「自らを顧み『象徴としても役割を果たせているのか』との謙虚さが伝わる」と話した。
昭和天皇は戦争責任を巡り、後半生まで苦悩していたことは侍従だった故小林忍の日記で明らかになっている。
草稿を解析した歴史家の半藤一利氏はこうした事情を踏まえ「自らの来し方に悔いを感じてこられ、
それを『はづかしき』と表現したように思う」と指摘した。
最後の出席となった88年8月15日の全国戦没者追悼式に寄せた歌も、戦争に触れている。
 あゝ悲し戰の後思ひつゝ しきにいのりをさゝげたるなり
大元帥として開戦と終戦に臨んだ昭和天皇の最晩年の悲哀がにじんでいる。
87年8月に亡くなった岸信介元首相をはじめ、側近だった侍従の死去を受けて詠んだ歌もあり、
記述は余白にまで及ぶ。所氏は「昭和天皇の誠実さと細やかさが伝わってくる」としている。
昭和天皇は生涯、約1万首の和歌を詠んだとされる。所氏によると、昭和天皇時代を記録し
刊行されている「昭和天皇実録」や、歌集「おほうなばら」には計870首が掲載されている。
(和歌の表記は原文のまま)
河北新報2019年1月3日

  • 最終更新:2019-01-06 13:19:37

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