昭和天皇 日記執筆か

(河北新報2018年8月24日)

昭和天皇 日記執筆か
小林忍侍従日記「お机に向い おつけになっておられた」
定説覆す可能性も

「日記らしきものをおつけになっておられた」―。
「小林忍侍従日記」の記載で、昭和天皇自身が生前に日記をつけていた可能性が浮上した。
記載があるのは1976年の元日。皇居・吹上御所で新年早朝の祭祀を昭和天皇に代わり
側近が済ませたことを、小林氏が居間で待機していた昭和天皇に報告しに行ったところ
「お上(かみ)はお机に向い日記らしきものをおつけになっておられた」とつづっている。

昭和天皇の記録としては、戦後すぐに回想を側近が聞き取った「昭和天皇独白録」や「拝聴録」、
昭和天皇が亡くなった後、宮内庁が24年余りをかけて編集した「昭和天皇実録」などがあるが、
自ら筆を執った日記類の存在は確認されず、存在しないというのが定説だった。
ただ、思わせぶりな記述は、これまでの史料にもあった。「卜部亮吾侍従日記」には、
香淳皇后が亡くなった後の2000年6月24日「女官長に例の『お日記』お忘れものとして
副葬品にお入れいただくようお預けする」と書かれている。昭和天皇の日記が形見として
“埋葬”されてしまったとも解釈できる内容だ。
一方、「拝聴録」は入江相政侍従長が昭和天皇から聞き取った記録で、見つかったり、
不明になったりを繰り返した。
卜部日記の88年5月23日の記述には、入江氏の後任の徳川義寛侍従長と「(皇居・宮殿の)
表御服所に赴き、入江侍従長の『拝聴録』を探索す。断念しかけたが最後にキャビネット最下段から発見。
内容確認しリストを作り元の場所に収納」とある。
その後また行方が分からなくなったが、卜部日記によると、2001年2月7日に再発見された。
現在は再び不明となっている。

早世の娘命日終生慎み
60年間悲しみ忘れず
昭和天皇は1961年に長女の東久邇成子(ひがしくにしげこ)(照宮)さん=当時(35)を、
28年に次女祐子(久宮)さん=生後訳6ヵ月を亡くしている。
「小林忍侍従日記」には、昭和天皇が晩年までそれぞれの命日は外出を控えていたことが記されており、
早世した娘たちを思いながら静かに過ごしていた様子がうかがえる。
成子さんの命日は7月23日。小林氏が侍従に就いた74年は「故東久邇成子様御命日につき終日吹上御所においで」
と書き、昭和天皇が一日中、住まいの吹上御所にいたと記録している。
昭和天皇は夏のこの時期、栃木県の那須御用邸に滞在していることが多かったが、
日記には「照宮さまの御命日のためお出ましなし」(76年)、「東久邇成子様御命日のため
終日お出ましなし」(83年)、「東久邇成子様御命日のためおでましなし」(85年)とあり、
日課としていた御用邸内での散策や植物観察を慎み、室内にこもっていたことが分かる。
祐子さんの五十年式年祭に当たる78年3月8日は「宮殿へのお出ましなし」と記述。
85年の命日も「久宮祐子内親王殿下御命日につき宮殿へのお出ましなし」と記録している。
この日は閣議のある金曜日で、通常なら宮殿の執務室で政府文書の決済をする日だが、
吹上御所で執務に当たったとみられる。
昭和天皇が亡くなる前年の88年の命日も「久宮内親王殿下御命日お出ましなし」。
60年前の悲しみを忘れることはなかった。

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  • 最終更新:2018-08-30 19:49:19

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