寛仁親王殿下 関連記事

故寛仁親王「女性宮家創立考えた事ない」「伝統は意味がある」
2012.06.06 18:40
「ヒゲの殿下」「スポーツの宮様」と親しまれた、三笠宮家の寛仁(ともひと)親王殿下が6日亡くなられた。66歳だった。
2005年頃には皇室典範改正問題が世間を賑わせたが、2008年当時、寛仁殿下は自身の意見をこう述べていた。

 * * *
有識者会議の答申には、現職の女性皇族を宮家として残すという趣旨が書いてありました。
あの法案は一度つぶれたと理解していますけれども、あの時点で年齢的に、
一番対象になる可能性が高かったのはうちの子供達だったわけです。
私は娘達が結婚したら民間人になるという前提で育ててきました。
彼女達も早く名字を持ちたい、と小さいときから言っていましたよ。上は26、下は24になりました。
あと、2~3年で、どこかの男にかすめ取られるだろうから、女性宮家創立は考えた事はありませんし、
万世一系の我が国の伝統に女性宮家創立は馴染みません。
天皇は一度の例外もなく男系の血筋によって受け継がれてきました。
歴代の天皇は、父親をたどると必ず天皇に繋がっていたわけです。
伝統は必ず意味があるから残っているのであって、意味のない伝統ならとっくになくなっているはずです。
もちろん今のままの皇室典範を維持していくのは難しいから改定は必要です。
細かいことは学者・法律の専門家等広く人材を集めて、具体的に詰めなくてはいけないけれど、
男系を維持するには、旧皇族さんにお戻りいただくことが必要です。
週刊ポスト2008年1月25日号
http:// www.news-postseven.com/archives/20120606_115229.html




故寛仁親王結婚時 妻に「お前を守らない」「守るべきは天皇」
2012.06.11 16:00
6月6日、66歳で亡くなられた、三笠宮家の寛仁(ともひと)親王殿下。
2008年に声を失われた後、喉の振動を音声に換える「人工咽頭」を喉に当てながら語る姿は鬼気迫るものがあった。
「私は結婚した時、妻に『俺はお前のことを守らないよ』と言ったんです。
私が一番に守らなければいけないのは昭和天皇……陛下の一番近くにいて、いつも用心棒のつもりでいました」
2009年1月に『SAPIO』(小学館)のインタビューに応じたときのことだ。
皇籍離脱を申し出たり、女系・女性天皇に反対するなど、歯に衣着せぬ率直な発言と気さくな人柄で
多くの国民から愛された“ヒゲの殿下”。本誌『週刊ポスト』は昨年入院する直前、
女性宮家問題についてのインタビューを快諾してもらっていたが、実現することなくこの世を去った。
「ラジオのDJやテレビのバラエティ番組に信子様と出演するなど、皇室のイメージを変えようと意欲的でした。
公務にも熱心で、スキーの指導を通じて身体障害者の福祉に生涯をかけて取り組みました」(皇室記者)
45歳の時に食道がんの手術をして以来、実に16回もの手術を受けながら病魔と闘った。
その姿は見る人に大きな勇気を与えてきた。その間も積極的な行動を続け、ポリシーを曲げず、
つねに昭和天皇への尊崇の念を貫いたヒゲの殿下。
これからは敬愛してやまない昭和天皇のお側で嬉々としてお仕えすることだろう。
週刊ポスト2012年6月22日号
http:// www.news-postseven.com/archives/20120611_116601.html


「女遊びはしたが、手は出していない」ヒゲの殿下の破天荒な生涯
ヒゲの殿下と親しまれた寛仁さまが、16回にも及ぶがんに伴う手術の末、破天荒な生涯の幕を閉じた。
66歳だった。福祉の「現場監督」を自任し、酒とおなごを愛したダンディーな皇族は、
スポーツマンやDJなどいくつもの顔を持っていた。発言と知人の証言で生涯を振り返る。
大学生のときはアイビー・ルックに身を包み、女子学生に騒がれた。75年10月、ニッポン放送のラジオ番組
「オールナイトニッポン」でDJを務めたときには、
「ぼくはいま29歳で、これまでに5回(結婚)したい女がいた」「いちばん初めはぼくが18のとき」
「ぼくは確かにもてると思うし、実績もある」と明かしている。
一方で、勉強はもう一つだった。75年11月21日号の週刊朝日に掲載された黒柳徹子さんとの対談では、
「ぼくは徹底していて、やらないといったら全然やらないんだ。前の日に本も見ないわけ。
カンニングが嫌いでね。いくら座ってたって書けねえから、(試験会場を)出てきちゃうんだ」と語った。
70年には、札幌冬季五輪の組織委員会事務局で4万1700円の月給をもらいながら、1年半にわたって
「サラリーマン皇族」になった。寛仁さまと取材を通じて付き合いを続けたノンフィクション作家の
工藤美代子さんはこのとき、札幌五輪でコンパニオンを務めていたという。
「コンパニオンや事務局職員の若い女の子たちは、『プリンスとお茶が飲めたら将来は妃殿下よ』と
こぞって殿下を狙っていました。『殿下とデートをした』とはしゃいでいたコンパニオンの女の子もいましたね」
30年後、寛仁さまと再会した工藤さんが当時の話をすると、寛仁さまは慌ててこう否定したという。
「誓ってもいい。すすきので女遊びはしたが、コンパニオンの子には手を出していない」
※週刊朝日 2012年6月22日号
http:// www.wa-dan.com/article/2012/06/post-753.php


宮内庁関係者「寛仁さまと妻・信子さまに夫婦間の衝突も」
2012.06.15 07:00
6月6日、三笠宮寛仁さま(享年66)が多臓器不全のために亡くなられた。
寛仁さまのご遺体を棺に納める儀式「御舟入」が6月7日、赤坂御用地内にある寛仁親王邸で営まれ、続いて、
皇族方がご遺体と対面される「拝訣」が行われた。
この儀式には天皇皇后両陛下をはじめ、皇太子ご夫妻も参列され、最後の別れを惜しまれた。
“ヒゲの殿下”の愛称で親しまれた寛仁さまは、皇族の枠にとらわれず、新聞、テレビ、ラジオ、雑誌などの
メディアに登場しては、“皇室のスポークスマン”として皇族の本音を国民に語られてこられた。
「皇籍離脱」発言や「がん」「アルコール依存症」の公表など、皇室のなかでは常に型破りで“異端児”的な存在だった。
そんな寛仁さまは1980年11月、8年越しの恋を実らせ、信子さま(57才)とご結婚。
信子さまは麻生太郎元首相(71才)の実妹で、母方の祖父が故・吉田茂元首相という名家の出身。
聖心女学院を経てイギリスのロスリンハウス・カレッジを卒業後、松濤幼稚園の英語講師を務められるなど
当時は珍しいキャリアウーマンだった。
ご成婚の翌年に長女・彬子さま(30才)、1983年には次女・瑶子さま(28才)を授かられた。
しかし、1990年暮れ、そんな幸せな日々に暗い影を落とすできごとが。寛仁さまに食道がんが見つかったのだ。
すぐに手術を受けられるが、それと同時に信子さまの献身的な看病が始まった。
信子さまは「殿下のお体のことが私の仕事ですから」と周囲に語られる程尽くされた。
寛仁さまは亡くなるまでの約20年間で16回の手術をお受けになるが、
実はその途中から信子さまの献身的なお姿は見られなくなっていった。
2004年4月、信子さまは胃潰瘍と更年期障害のため、軽井沢の姉の別荘で療養生活を送ることとなり、
寛仁さまとの別居が始まったからだ。公には病気が理由だったが、
実際には、このころからご夫婦の間には大きな溝ができていた。
「寛仁さまとはご病気の公表を巡って意見が対立したこともありました。さらに、信子さまは、ご自分が
病気になられたことで、皇族としてのお立場に不安を抱かれたこともあり、そのような思いを巡って、
夫婦間の衝突もあったそうです」(宮内庁関係者)
2年間の療養生活の末、2006年8月、寛仁親王邸に戻られた信子さまだったが、同じ家で暮らしながらも、
おふたりが顔を合わせることはほとんどなかったという。
2007年の歌会始で信子さまは、こんな歌を詠まれている。
 澄みわたる月の光をあふぎみて今の世思ひ次の世を思ふ

一方の寛仁さまも2007年10月、『ニューヨーク・タイムズ』のインタビューでこう語られた。
「家庭内では揉め事も多かった。26年間も連れ添っていればね」
信子さまは2007年12月からは気管支ぜんそくのため入退院を繰り返され、さらに2009年10月の退院後は
ご自宅には戻らず、皇居にほど近い旧宮内庁長官公邸でおひとりでの生活を送られ、いまに至っている。
前述した信子さまとのご夫婦の溝は最後まで埋まらず、信子さまは臨終にも立ち会われず、
前出の「御舟入」「拝訣」にも参列されなかったという。喪主も長女の彬子さまになる。
ご夫婦関係に苦労される一方で伝統ある皇室を守るために腐心され、力尽きた寛仁さま。
これからは天国で、未来の皇室を見守られることだろう。
※女性セブン2012年6月28日号
http:// www.news-postseven.com/archives/20120615_119380.html


SO YOU8月号 
p57
「自衛隊に優しかったヒゲの殿下」
三笠宮家の寛仁親王殿下が薨去された。本名を知らなくても、「ヒゲの殿下」でイメージできた人も多かっただろう。 
まだ66歳。16回も手術を繰り返され、ついに力尽きられた。殿下のご業績は、薨去直後の報道で語りつくされている。
ここでは自衛隊に優しかった殿下の側面を改めて紹介し、殿下の勇気を偲びたい。
皇族は殊のほか「中立性」に配慮される。しかし、寛仁親王殿下はより積極的だった。
例えば自衛隊音楽祭りには「お忍び」で毎年のようにお見えになっていた。海上自衛隊が遠洋航海に出る前には、
候補生たちにテーブルマナーをご令嬢たちとご指導されていたし、北海道の身障者スキー大会等では、
コース整備の自衛官へ気さくに声を掛けておられた。
平成15年からは、国民の自衛官表彰式にもご臨席戴いていた。
それもこれも、自衛隊の重要な役割をご承知だったからに違いない。
「自衛隊の母」Yさん(去年死去)のお口添えで筆者がご臨席お願いに宮廷へ伺ったとき、ご快諾いただいた後、
さらに踏み込んでお願いしてみた。「いずれは殿下に自衛隊の栄誉礼を受けていただきたい」と。
殿下は驚かれたようだったが、父君が昭和47年、横須賀で公式の栄誉礼を受けられている前例を申し上げた。
殿下は「今すぐには無理でしょうが、考えておきましょう。」とおっしゃった。もう少しご寿命が長ければ、
あるいは栄誉礼の機会も…。殿下のご短命は、自衛隊のためにも残念だった。


Voice2012年8月号
寛仁親王殿下と竹田氏
私が殿下と政治や歴史の話をするようになったのは、私が孝明天皇の研究をしていたのがきっかけだった。
出版の計画もあったため、父は「皇室の研究をするなら寛仁親王殿下にご相談しておくべき」と、
平成16年5月26日に、あらためて殿下につないでくれたのである。
私が父に連れられて赤坂御用地内の寛仁親王邸に参邸したこの日は、私の人生にとってあまりに衝撃的な日となった。
明天皇研究に関する話がひとしきりしたところで、殿下が「ところで恒泰君は歴史に詳しいから、
もしかしたらいい考えがあるかもしれないんで聞きたいことがある」と前置きなさった上で、
「昨今、皇位継承の議論があるが、もう女性天皇を認めるしか方法はないのかね。君はこの件についてどう思うか」との御下問があった。
当時、若い世代に皇族男子がお一人もいらっしゃらない状況のなか、皇太子妃殿下と秋篠宮妃殿下には
もはやご懐妊は望めないという観測もあり、皇統の危機を迎えようとしていた。
この時期はいまだ議論が深まる前で、秋篠宮妃殿下ご懐妊が発表されるじつに2年前のことである。
寛仁親王殿下は、皇室を継続する方法がないものか考えを巡らせるも、違和感を覚えつつ、
女帝を建てるのもやむなしと、半ば諦めておいでだった。そこで私にお尋ねになったのである。
いくら私が親戚とはいえ、殿下は皇族で私は民間人、そして歳も親子ほどの隔たりがあり、経験や見識などにおいて
殿下は卓越しておいでだが、ご自分よりも専門知識がある相手には、年下であってもかまわず御下問になり、
学び取ろうとなさることは、殿下の強い向学心とやさしいお人柄の表れだろう。
私は孝明天皇の研究をしていたため、その祖父の光格天皇についてもある程度知っていた。光格天皇とは、
皇位継承の危機にあたり傍系の閑院宮家から擁立されて経緯があり、そこに皇位継承の真髄をみることができる。
殿下の御下問に対し「私が殿下に皇統について意見を申し上げることはまことに筋違いとは存じますが、
御下問がありましたので、畏れながら奉答いたします」と前置きをしたうえで、はばからず光格天皇の
ご即位の経緯をつぶさに申し上げ、皇室の2千年に及ぶ歴史の中で皇位継承の危機は3回あり、
いずれも、たとえ血縁は遠くとも必ず傍系の男系男子のなかから天皇を擁立してきたこと、
そして、旧皇族には複数の男系男子がいるため、旧皇族の一部を皇族に復活させるか、
もしくは宮家が旧皇族から養子を取る(祭祀を継承させる)2つの方法がある旨を奉答した。
私が話しているあいだ、殿下は興味深いご様子でお聞きになり、ときどき大きく頷く場面もあった。
そして、私の話を聞き終えると、殿下はほがらかに
「なるほど、その手があったか。それじゃ、今日うちの娘を持って帰ってかまわないから、
秋篠さまの次はおまえが天皇をやれ!と仰せになったのだ。
これは殿下一流のご冗談に違いないが、あまりに畏れ多いことだったため、私も父も驚愕した。
私は人生において、このときほど驚いたことはない。そこで、旧皇族から養子を取る場合でも
皇室典範を改正する必要があること、旧皇族には複数の男系男子がいるため、私に限る必要はなく、
そもそも私は不適切であることなどを申し上げて退下した。
殿下は私の口頭での話を鵜呑みになさることなく、ご自分で納得のゆくまでご研究なさった。
この日、殿下は私に資料の提出をお求めになり、私は帰宅後、種種の資料を取りまとめ、
過去の皇統断絶の危機にあたり、男系継承が守られてきた経緯の詳細を記した書面を送った。
その後、殿下は専門家を次々に宮邸にお招きになり、皇統の問題について専門的な意見を次々とお聞きになって、
ご自身で見識をお深めになったのである。よく殿下は型破りで破天荒な宮さまと表現されることがあるが、
このように、とても緻密で用心深いご性格も併せてもっておいでだった。


Voice2012年8月号
彬子女王の手記
斂葬の儀の数日前。ご墓所に埋葬する副葬品を選んでいたときのこと。いつもお使いだった
セカンドバッグを入れるために中身を確認した。老眼鏡やメモ帳、ペン、メガネふき、お守りなどの
なかにあって、ひときわ存在感を示していたのは分厚いお財布である。(中略)
クレジットカードやポイントカードなど、一枚も持っておられないので、お財布のカード入れの部分は
ほとんど使われていなかった。でも、そのなかに一つだけピンク色の紙がのぞいているのがみえた。
引き出してみると、私が幼稚園のときに折り紙で作り、父にプレゼントした「おとうまのおさいふ」
だった。中には、一とか二とか書いた硬貨と思しき(実際は全然丸くない)切り抜いた紙と、
紙幣と思しき長方形に切り抜いた紙が数枚入っていた。
私たち姉妹は、父のことを「おとうま」と呼んでいた。
父も御両親殿下のことを「おとうま「おかあま」と呼んでおられたのでそれを踏襲したのだろう。
(おそらくは「おとうさま」「おかあさま」の略ではないかと思う)。
でも、子供のころの父との思い出というのはそれほど多くない。とにかく父はお忙しかったし、
「議論ができるようになって初めて人間同士のつき合いができる」が持論だったので、議論の
できない子供にはあまり興味がなかったはずである。
実際、子供を子供扱いしない方であった。親子というよりは先輩後輩のような関係であったと思う。
怒られるときも、自分がなぜ不愉快になったかを説明され、私や妹がただやみくもに「ごめんさい」
といっても許してくださらなかった。逆に、私たちがなぜこのような行為を取ったかをきちんと
説明し、その理由に納得ができれば、相手が娘であっても「悪かった」と謝られる方だった。
勉強で分らないことがあって質問をすると、自分が分らないことであれば、自分のお知り合いの
専門家にその場で電話をして、「娘にわかるように説明してやってくれ」と直接私と話をさせる。
中途半端な答えは絶対に返されなかった。
そんな父である。私自身、そんなものをプレゼントしたことなど忘れていたし、「議論のできない」
幼稚園生の私がつくったものをいまも大切にもっておられるなんて思ってもみなかった。
それから25年以上ものあいだ、何回か父のお財布が代替わりしたのは知っている。
その都度、「おとうまのおさいふ」を忘れずに入れ直してくださっていたのである。父が亡くなって
数日たち、涙もかれたかと思ったころだった。父にどれだけ大切にしてもらっていたかを
あらためて感じ、あふれる涙はほんとうに止まらなかった。部屋に戻ってひとしきり泣いた。
30年間ほんとうにいろいろなことがあった。楽しい思い出もたくさんあるし、つらかったことも、
怒られたことも、喧嘩したことも何度あったか思い出せない。でも、いま思い出すのは、いつも
前を向き、一つの信念をもち、曲げることなく、「トモさんらしく」物事に向き合ってこられた人間
「寛仁親王」の姿である。その人の娘として生きてこられたことを、私は心から誇りに思っている。
柏さま、「多謝」。雪より。

  • 最終更新:2017-04-30 11:42:02

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