宮内庁という「とんでもない役所」 皇后が声を失った真実

宮内庁という「とんでもない役所」 皇后が声を失った真実
2018.10.16 07:00
平成の時代があと半年で終わりを告げる。
皇室取材を30年続けてきた、朝日新聞元編集委員の岩井克己氏が、
皇室の「楽屋裏」から見た秘話を通じて、平成皇室の姿を語る。

──岩井さんが宮内庁担当となったのは1986(昭和61)年でした。

そうです。皇居の守りを固める最大の門である坂下門を閉門時刻を過ぎて出入りする際には、
皇宮護衛官が2人がかりで太いかんぬきを外し、全体重をかけて巨大な扉を開けてくれます。
「江戸城開門」を実感するこの場所は、1862(文久2)年1月、
開国を進める幕府の老中安藤信正を水戸藩士らが襲った「坂下門外の変」の舞台でした。
1945(昭和20)年8月15日。玉音盤を奪い降伏を阻止しようと
近衛歩兵を率いて乱入した青年将校が切腹したのも、このそばです。

86年の夏、初めて取材した国賓の歓迎晩餐(ばんさん)会。
宮殿の豊明殿で昭和天皇と皇族方がずらりと並ぶなか、
シャンデリアに照らされた高松宮宣仁親王殿下の頬がげっそりとこけて痩せておられるのに気づいた。

皇室の取材においては、天皇、皇后両陛下の私生活を支える侍従や侍医らへの取材は欠かせません。
すぐに、肺がんだとつかめた。しかし秋には、他社も気づきはじめ、
普段は誰も取材しなかった殿下の公務にわんさか記者が群がるようになってしまった。
ご本人は苦笑いしておられましたが、痛々しかったですね。

翌87(昭和62)年2月に逝去されると、いろいろと問題が持ち上がりました。
皇族の葬儀は53(昭和28)年の秩父宮以来34年ぶり。役人も記者も経験者がほとんどいない。
双方が手探りでしたね。土日はガラガラで当直しかいない役所ですが、
ある日曜日に幹部連中がひそかに集合していた。せわしげに打ち合わせに動きまわる幹部を捕まえて、
「何事ですか」と迫った。しぶしぶ答えてくれたのは、
「シルクハットに喪章を巻くやり方がわからない」。
元内舎人(うどねり)に知っている人がいたから、ようやく解決した、と。
とんでもない役所だと思ったのを覚えています。
つまりは儀式官庁なのですね。時代が昭和から平成に移ろうとも、
天皇制の議論や日々のご公務とは別に、しきたりや作法が重視され受け継がれる。
特に、天皇、皇族方の冠婚葬祭で歴史や伝統が顔をのぞかせる。

──平成に入ると、90(平成2)年の礼宮さまの結婚、
93(平成5)年には皇太子、徳仁親王の結婚で慶事が続きました。
一方、2000(平成12)年6月には昭和の象徴たる香淳皇后の逝去もありました。

香淳皇后が亡くなったときに、皇室に受け継がれるべき作法が十分に伝わっていない、と
問題になったことがあります。

葬儀の一連の儀式では、女性皇族はベールを被ります。
皇后は腰まである長いベール。皇太子妃はこの長さ、皇族妃はここまで、とご身位が重いほど長くなる。
6月の逝去から、通夜にあたる殯宮祗候(ひんきゅうしこう)をはじめ多くの儀式が続きました。
当初、雅子さまがとても短いベールを被って来られ、違和感を覚えたことがありました。
他の女性皇族のほうが長いベールでした。(※)

赤坂御用地にある東宮御所は、ある意味で離れ小島。
皇后さまが作法に通じたベテランの女官を配属する配慮をされたのですが、
新しい女官たちに煙たがられたのか、うまく継承されていなかったらしい。
皇后は、天皇陛下の母であり昭和の時代を象徴する香淳皇后の葬儀を、
完璧に営みたいと、不眠不休で頑張っておられた。
そうしたなかで、問題が起き、雅子さまが本葬に欠席するという事態にまでなってしまった。
ベールひとつとっても、特殊なもので、たまたま高松宮妃が生地をたくさん持っておられ、
何とか間に合ったという状況でした。厳格な作法が求められる一例です。

──来年4月の天皇退位まであと半年。思い起こされるのが、
昭和から平成への代替わり間もないころに起きた皇室バッシングです。
皇后さまは1993年10月20日の誕生日の朝に倒れ、声を失う事態となりました。

「私の天皇像とは、天皇制を遂行できる天皇である。もしそれができない天皇ならば退位してもらいたい」
いまの天皇の退位をめぐる議論ではありません。

93年の「諸君!」12月号に掲載された加地伸行・大阪大学名誉教授の論文です。
平成が本格的に船出し、東南アジアや中国を訪問した時期に、守旧派は平成の皇室に対する批判を強めました。
そして、バッシングは皇后に集中していったのです。

「皇后の役目は、ダンスでもなければ災害地見舞でもない」(加地氏)
天皇、皇后は傷つき、
「だれもわかってくれないのでは」
と孤立感を抱いたようです。
ただ、皇后が倒れ声を失ったのは、バッシング報道で自らを見失い、
くずおれたという単純なものではないと、私は思っています。
「最終的な引き金は、ある親しい人の周辺からの手紙だった」と聞いたからです。
皇太子妃決定過程に関連した人の手紙の一部に傷つくような表現があったとか。
「雑誌などの平成流皇室に対する批判に苦悩する最中、
心にかけていた相手側のメッセージだっただけに、強い衝撃と絶望感で倒れた」のだそうです。
差出人を見て、十分に中身を確かめずに手紙を届けた古参侍従は、自らを責め、後悔の涙を流した、とも聞きました。
皇后が倒れた朝に公表された誕生日の文書回答で、皇后はこう記していた。
「どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います(中略)
批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、
繰り返し許される社会であって欲しくはありません」

言論の自由が萎縮してはならない、と述べたのです。
「皇室の務めは災害見舞いではない」「皇居の奥で祈るだけでよい」との守旧派の批判に、
天皇、皇后は耳を傾けつつも決して屈しなかった。
その後も戦争の犠牲、災害の犠牲に現地を訪れて祈りを捧げ、
国内外の人々とふれあい、絆を結ぶことに全身全霊で努め続けた。
生前退位も、こうした象徴のありようを十全な形で次世代に継いでもらいたいとの思いからでしょう。
(構成/本誌・永井貴子)
※週刊朝日  2018年10月19日号より抜粋

https:// dot.asahi.com/wa/2018101200024.html?page=1



ベール事件おさらい

週刊新潮2013年5月2・9日号
「2000年6月16日、皇太后さまが崩御されましたが、その際のことです」
そう振り返るのは、さる宮内庁の古参職員だ。
7月25日には豊島岡墓地で、一般の本葬にあたる「斂葬の儀」が営まれたのだが、雅子妃はこれをご欠席。
「前日には東宮大夫の会見で、妃殿下は『暑さが続き、夏バテのような状態』で体調を崩され
『お体を大切にしていただく見地からお取り止めになった』との発表がありましたが、案の定、懸念や批判の声が相次ぎました」(同)
これに先立ち、皇族方や宮内庁職員らが24時間交代でお棺の側に詰める「殯宮祗候(ひんきゅうしこう)」が、40日間にわたって続けられていた。
実はこの時期に、今に至るまでトラウマとなっている「出来事」が、雅子妃に起きていたというのだ。
「殯宮祗候と並行し、斂葬の儀当日までは連日、さまざまな儀式が続きました。その際、妃殿下は現場で
行事におけるきまりごとについて、皇后陛下からごく簡単なアドバイスを受けたのですが…」(同)
それは、お召し物のベールの長さなど、これまで営々と続けられてきた、しきたりに関するものであったという。が、
「妃殿下は、この皇后陛下とのやりとりを『叱責』と受け止めてしまわれたのです。大勢の皇族方や職員の前で
自分だけが咎められたのだと解釈なさり、ショックを受けてしまいました」(同)
こうした“アクシデント”もあり、斂葬の儀だけでなく、前日に吹上大宮御所で営まれた儀式なども、雅子妃は欠席された。
実際には「叱責」の事実などなかったのだが、
「後に妃殿下はこの一件を、主治医である大野裕医師のカウンセリングを受けた際、お話しになっています。
そして、この時の体験が大きな心の傷となり、御所への参内もままならないという趣旨のご説明をされている。
御所の側にもそうした“思い込み”は漏れ伝わっており、念のため儀式に携わった人たちに
当日の様子を確かめたところ、そうした場面は一切なかったことが分かったといいます」(同)
一方的な思い込みがあらぬ誤解を生み、ご自身の中でも大きなわだかまりとして燻っているというのだ。 

  • 最終更新:2018-10-16 20:03:26

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