天皇陛下の疎開先をたどる

天皇陛下の疎開先をたどる 栃木・益子

朝日デジタル(皇室トリビア)
宮内庁担当 島康彦
2015年9月24日11時48分

益子焼で知られる栃木県益子町。地元の観光協会によると、窯元は約260、陶器店は50を数えます。
そんな芸術の街に、天皇陛下が70年前の1945年8月15日、
戦争終結を伝える昭和天皇の「玉音放送」を聞いた部屋が残されていると聞き、記者がたずねました。

益子駅から車で10分ほどにある「つかもと」。
子焼の販売や陶芸体験、飲食店などを手がける同社の敷地内に、その建物はありました。
小高い丘に立つ2階建ての和風建築。普段は公開されていませんが、お願いして中を見せてもらいました。
重厚感のある玄関を入り、玉ねぎを逆さまにしたような形の装飾物「擬宝珠(ぎぼし)」がついた階段を上がると、
下の両側に計7部屋が並んでいます。その一番左奥の部屋に「天皇陛下ご疎開の間」と表示が掲げられていました。
ここが天皇陛下が玉音放送を聞いた部屋です。
45年7月21日から終戦後に帰京する11月7日まで過ごしました。
手前から8畳、10畳、5畳に分かれ、天皇陛下が玉音放送を聞いたのは8畳間。
壁側に机が置かれ、普段は勉強部屋として使われていたそうです。
「しっかり握りしめられた両手はかすかにふるえ、目がしらには涙があふれ光っていた」。
当時の状況を、学習院軍事教官として立ち会った高杉善治さんが著書に残しています。
居間として使われていたのが、隣の10畳の部屋。
中央のテーブルには、向かい合うように座椅子とふたがついた湯飲み茶わんが二つずつ置かれていました。
天皇陛下は1996年、地方産業視察のために益子町を訪れ、皇后さまとともにこの部屋で昼食をとりました。
この時、案内役を務めた「つかもと」会長の塚本純子さん(81)は
「(天皇陛下は)疎開当時を非常に懐かしがられた様子で、
『お部屋の雰囲気は変わりませんね』」と話したそうです。
その奥の5畳間の柱に、数本の横線の印が残されているのに気付きました。
「真偽は不明ですが、陛下の身長を記したものだと言われています」。そう教えてもらいました。
ちょうど真下にあたる1階の部屋も同じ間取りです。10畳の部屋が寝室。
8畳間の壁の一部には穴が空けられ、庭の防空壕(ぼうくうごう)につながっていたと言われています。
「つかもと」によると、この建物はもともと栃木県日光市の奥日光、
湯ノ湖そばに建っていた「南間(なんま)ホテル」です。
江戸時代から続いた由緒あるホテルでしたが、その後、廃業。
1973年に建物ごと「つかもと」が引き取り、今の場所に移築したそうです。
ホテルや宴会場として利用されましたが、いまは使われていません。
つかもと社は「天皇陛下が疎開生活を送られた大切な場所」と今後も管理していく方針ですが、
補修などで多額の維持費がかかっているといいます。中を見たいという声もあるようです。
栃木県や益子町などが歴史的遺産として公的に管理することを検討するのも一つの道かもしれません。

天皇陛下が最初に疎開したのは1944年5月15日。当時10歳、学習院初等科5年生でした。
静岡県沼津市の沼津御用邸で生活し、近くの沼津遊泳場にあった建物で同級生と授業を受けました。
その一人、明石元紹(もとつぐ)さん(81)によると、
当初は松林で相撲大会を開いたり、遠足へでかけたりするなど平穏な日々が続いたといいます。
しかし、7月7日にサイパンが陥落すると状況は一変。
近くの岬に敵国の潜水艦がいるという情報が寄せられ、翌8日に帰京。
そのわずか2日後の10日には、栃木県日光市の田母沢(たもざわ)御用邸に移りました。
秋篠宮さまは昨年11月の誕生日会見で、天皇陛下にとってサイパンがとりわけ印象に残っていると紹介したうえで、
天皇陛下から「沼津の疎開中に、ある日学校の授業から帰ってきたときに、
お付きの人からサイパンが陥落して、危ないので日光の方に場所を移しますということを言われて、
それでサイパンが陥落したということが大変なことなのだと強く印象に残っている」と聞いたと明かしました。
日光田母沢御用邸は1899年に大正天皇の静養先として造営されました。
大正、昭和、現在の天皇陛下と3代にわたり利用されましたが、1947年に廃止され、
現在は記念公園の一部として有料で公開されています。
合計で106の部屋があり、天皇、皇后向けの南側の奥向き(23室)と、
それを補佐する臣下向け(83室)に区分されています。
天皇陛下は1944年7月10日から終戦後に帰京する11月7日まで、
大正天皇の妻・貞明皇后のために造られた皇后宮で生活しました。
もともとは日光出身の実業家小林年保(ねんぽ)の別邸として明治20年代初頭に建てられ、
当時の民間の建物としては質が高く、京風の様式を意識した優美な造りが特徴でした。
1階の皇宮御座所を居間として使い、2階の御学問所で勉強したそうです。
御学問所も普段は非公開ですが、特別に見せてもらいました
畳敷きの部屋の床柱はイチイの角柱で、室内の釘隠しには折り鶴がデザインされています。
両陛下は1996年7月、およそ50年ぶりにこの部屋を訪れました。「あのあたりにあったイチイは?」。
地元関係者によると、2階から庭を見ていた天皇陛下は庭の地面を指さして、そうたずねたそうです。
後に調べたところ、天皇陛下の疎開中、まさにその場所にイチイの木があったことが分かりました。
このことがきっかけで2001年7月、両陛下が再びここを訪れ、イチイの木をお手植えしました。
今は3メートルの高さに成長しています。
管理事務所の鈴木孔二主査に庭を案内してもらいました。目を引いたのが、4カ所にある防空壕(ごう)の入り口。
天皇陛下が利用したかどうか、構造はどうなっているのかなど、はっきりしないことが多いとのことです。
今年8月、職員が中に入ったところ、腰ぐらいまで水がたまっていたそうです。
天皇陛下は疎開中、同公園に隣接する植物園(現・東京大学大学院付属植物園日光分園)内の教室に通学し、
同級生と授業を受けました。その教室は火事で焼失しましたが、再建され、今は研究場所となっていました。
天皇陛下が通学中に通った「通御橋(かよいみはし)」、2カ所に防空壕が残っています。
天皇陛下が初めてスキーをしたという坂もありました。
この園内には日本の高山や温帯から亜寒帯に生育する種などが集められ、
自生も含めるとシダ植物約130種、裸子植物約70種、被子植物約2千種が生育しているそうです。
園内は有料で開放されていますが、見どころがたくさんあってオススメです。

終戦後の1945年11月7日。天皇陛下は同級生とともに東京に戻ります。
国鉄日光駅から特別列車に乗り、原宿の皇室専用の駅へ。同級生の明石さんは「どこをみても焼け野原で、
あったはずのものがなくなっていた」と振り返る。
天皇陛下も皇太子時代の会見で「東京に戻ってきたとき、まず、びっくりしたのは、何もないということですね。
建物が全然ない。原宿の駅に。これがいちばん印象に残っています」と話されています。
(宮内庁担当 島康彦)
http:// www.asahi.com/articles/ASH9P36LKH9PUTIL001.html

  • 最終更新:2017-03-05 11:28:00

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