大正天皇は“暗愚”だったのか- 御製にあふれる鋭敏な知性

大正天皇は“暗愚”だったのか- 御製にあふれる鋭敏な知性
2018.12.1 07:00

大正天皇崩御
大正9年以降、長く療養中だった大正天皇の容体が急変したのは、15年12月8日である。
天皇は夜から食欲がまったくなくなり、鼻腔(びこう)から栄養補給をする状態となった。
裕仁皇太子と良子皇太子妃は11日、神奈川県の葉山御用邸に日帰りで大正天皇を見舞い、
13日からは泊まりがけで看病した。このとき、病床につきっきりだった貞明皇后から、
天皇の熱を冷ますため「おしぼり(をとってきて)」と言われた良子皇太子妃が、
緊張のあまり手袋をつけたままおしぼりを絞って天皇の額に当てたと伝えられる(※1)。
病状はその後、小康状態と重篤とを繰り返しながら推移し、25日の未明を迎えた。
午前1時12分《侍従詰所の非常鈴が鳴り、侍従・侍従武官一同は天皇の御前に伺候する。
同十五分御病勢ますます増進し、御危険に迫られる旨が発表される。午前一時二十五分、
天皇は心臓麻痺により遂に崩御される。宝算四十八歳、御在位十五年に渉らせられる。
(病床で看病していた)皇后は、侍医より御臨終の旨の言上をお聞きの後、直ちに綿棒に水を浸し、
天皇の御口元に奉り、皇太子・皇太子妃・宣仁親王・崇仁親王・昌子内親王・房子内親王・
允子(のぶこ)内親王・聰子(としこ)内親王及び女官一同がこれに続く》(昭和天皇実録13巻162頁)
大正天皇の生涯は、病気との闘いの連続だった。誕生後間もなく髄膜炎にかかり、
その後も百日咳、腸チフス、胸膜炎などに罹患(りかん)。青年期になって学習の後れを取り戻そうと、
東宮職員らが詰め込み式の帝王教育を急いだことも、大正天皇の心身に負担を強いたとされる。
貞明皇后と結婚してからは急速に健康を回復し、指南役である有栖川宮威仁(たけひと)親王とともに、
精力的に地方巡啓を重ねるなどした。思ったことをすぐに口にし、行動する性格だったため、
巡啓先の関係者らを慌てさせることもあったが、明治天皇とは異なる気さくな人柄として国民の人気は高かった。
明治40年10月には、皇太子として初めて韓国の地を踏み、日韓併合前の悪化した反日感情を和らげようと努めている。
これを機に韓国皇太子との親交を深め、自らの意思でハングルを勉強するなどした(※2)。
健康状態が再び悪化したのは、即位後しばらくたってからだ。
何事も先帝のようにと求める山県有朋ら元老との折り合いが悪く、ストレスが増大。
大正5年ごろから言語障害も発症し、ついに政務をとることが出来なくなったのである。
大正天皇の病気が何だったのかは、現在でもはっきりしない。
侍医の一人はアルツハイマー病を疑い、あるいはパーキンソン病の一種と推測する近年の研究もある(※3)。
ところが大正10年11月、裕仁皇太子の摂政就任と同時に宮内省が発表した病状報告により、
国民の間にあらぬ憶測を呼んでしまう。「御脳力御衰退…」「諸脳力漸次御衰へ…」
「御意思の御表現甚(はなはだ)御困難」などと、大正天皇の「脳力」の低下を
ことさら強調する内容だったからだ(※4)。この発表後、大正天皇は暗愚だったとする誤解まで生まれ、それは現在も続いている。
だが、実際の大正天皇は日常的に漢詩を詠むほど聡明だった。鋭敏な知性は、和歌にもあふれている。
たとえば大正10年の、「社頭暁」と題された1首-。

神まつる わが白妙の 袖の上に かつうすれ行く みあかしのかげ

この感性はどうだ。国家と国民の平安を祈る未明の祭祀で、
純白の御祭服に灯明の光(みあかしのかげ)が反射してゆらめき、
暁が近づくとともに薄れゆく情景が、痛いほど鋭利に詠まれている。
国民への深い愛情も、数多の和歌から読みとれよう。

われを待つ 民の心は ともし火の 数かぎりなき 光にもみゆ(大正3年)

日露戦争などの戦利品をみたときは、こう詠んだ。

武夫(もののふ)の いのちにかへし 品なれば うれしくもまた 悲しかりけり(明治時代)

人間性も豊かで、子煩悩だったことはすでに書いたとおりだ。

しばらくは 世のうきことも 忘れけり 幼き子らの 遊ぶさまみて(大正6年)

崩御の数日前から、病床で看病する裕仁皇太子の食事量は半分以下に減っていた。
その悲しみは、どれほどだっただろう。
だが、それを表に出すわけにはいかない。

崩御の日、裕仁皇太子は天皇となった--。
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 貞明皇后は「おしぼり」の一言で、緊張して何も出来ないでいた良子皇太子妃に
看病するきっかけをつくったとも、叱責したとも解釈されている
(※2) 大正天皇は即位後も韓国語の勉強を続けた
(※3) 杉下守弘著「大正天皇の御病気に関する文献的考察」(医学誌『認知神経科学』14巻1号収録)では、
大正天皇の病名を「大脳皮質基底核症候群」や「原発性進行性失語症」と推測している
(※4) 大正10年11月25日の東京朝日新聞夕刊に掲載された宮内省発表の「聖上陛下御容体書」は以下の通り
「天皇陛下に於かせられては禀賦御孱弱(ひんぷせんじゃく=生まれつき身体が弱いこと)に渉らせられ、
御降誕後三週日を出てさるに脳膜炎様の御疾患に罹(かか)らせられ、御幼年時代に重症の百日咳、
続いて腸チフス、胸膜炎等の御大患を御経過あらせられ、其の為め御心身の発達に於いて
幾分後れさせらるゝ所ありしが、御践祚(せんそ)以来内外の政務御多端に渉らせられ、
日夜御宸襟(しんきん)を悩ませられ給ひし為め、近年に至り遂に御脳力御衰退の徴候を拝するに至れり。
目下御身体の御模様に於ては引続き御変りあらせられず、御体量の如きも従前と大差あらせられざるも、
御記銘、御判断、御思考等の諸脳力漸次衰へさせられ、御思慮の環境も随(したがっ)て
陝隘(きょうあい)とならせらる。殊に御記憶力に至りては御衰退の兆最も著しく、
之に加ふるに御発語の御障碍(しょうがい)あらせらるる為め、
御意志の御表現甚(はなはだ)御困難に拝し奉るは洵(まこと)に恐懼に堪へざる所なり」
この発表には、摂政設置を国民に納得させる狙いもあったが、批判も多く、
大正天皇の侍従武官だった四竈(しかま)孝輔は日記に「嗚呼(ああ)、何たる発表ぞ。
昨日までは叡慮文武の聖上と其の御聖徳を頌(しょう)しつゝ、今日俄然此の発表あり。(中略)
今や統治の大権施行を摂政殿下に托し給ひ、専ら御静養あらせ給はんとする聖上陛下に対し、
何の必要ありてか此の発表を敢てしたる」とつづっている
なお、大正天皇が暗愚だったする風説の一つに、帝国議会の開院式で勅語を読み上げた後、
持っていた証書をクルクルと丸め、遠めがねのようにして議場を見回したとされる「遠眼鏡事件」があるが、
事実とする1次史料はなく、信憑性は低いとされる

【参考・引用文献】
○主婦の友社編「貞明皇后」
○宮内庁編「昭和天皇実録」13巻
○宮内省編「大正天皇実録」71巻
○原武史著「大正天皇」(朝日新聞出版)
○四竈孝輔記「侍従武官日記」(芙蓉書房)
○大正天皇御集刊行会編「大正天皇御集」
○岡野弘彦解説「おほみやびうた」(邑心文庫)
https:// www.sankei.com/life/news/181201/lif1812010003-n1.html

  • 最終更新:2018-12-01 14:29:20

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