両陛下は、なぜ被災地を巡るのか

天皇、皇后両陛下は、なぜ被災地を巡るのか 皇室担当記者たちが明かす未公開秘話
永井貴子2018.2.24 07:00

天皇、皇后両陛下は、なぜ被災地を巡るのか──。
東日本大震災発生から7カ月後の2011年10月、皇后さまが誕生日に発表した文書をきっかけに、朝日新聞社会部の皇室担当記者の取材が始まった。
そこからの両陛下の足跡をたどった『祈りの旅』(朝日新聞出版)が発売された。えりすぐりの秘話を紹介する。

「ともすれば希望を失い、無力感にとらわれがちになる自分と戦うところから始めねばなりませんでした」
「このような自分に、果たして人々を見舞うことが出来るのか、不安でなりませんでした」

朝日新聞社会部の北野隆一編集委員は、震災の年の秋、皇后さまが誕生日に公表した文書に胸が詰まった。
被災者に笑顔で接していた皇后さまが、実は内面に葛藤や悩みを抱えていたと知った。
そこからスタートした取材は、朝日新聞の連載「プロメテウスの罠 震災と皇室」
「被災地の両陛下をたどって」「てんでんこ皇室と震災」という形となり、読者に伝えられた。
本書では、宮内庁幹部や、陛下と対面した専門家や政治家、被災者、復興にあたった自衛官ら多数の関係者への取材を積み重ね、
両陛下の足跡を丹念にたどっている。そこには両陛下の葛藤だけでなく、平成の皇室を築き上げた両陛下自身の変化も浮かび上がる。
その一部を紹介しよう。

■3月11日午後2時46分
東京都千代田区は震度5強の揺れに襲われた。天皇陛下は皇后さまとともに皇居の宮殿で、その瞬間を迎えた。
宮殿の表御座所の部屋に並ぶ各国元首の肖像写真立てが、激しい揺れで次々と倒れた。
皇后さまはお住まいの御所に戻ったが、天皇陛下は国事行為である、内閣からの書類に署名押印する「執務」のため宮殿に留まり、
テレビの災害ニュースをじっと見続けた。

テレビ画面に、津波の高さの予想が「10メートル」と表示された。
すると陛下は1993年の北海道南西沖地震で津波に見舞われた奥尻島に触れ、
「沖合で操業していたイカ釣り船は無事に帰ってきたので、沖合まで出られれば大丈夫」と祈るように語った。

■陛下に説明したメルトダウン
あとから明らかになったが、この日の夜には、東京電力福島第一原子力発電所1号機のメルトダウン(炉心溶融)が始まっていた。
翌12日には、1号機が爆発。発生6日後の3月17日夜に、仙谷由人官房副長官の認証式が皇居で行われた。
式は十数分。あとの30分は、菅直人首相が別室で陛下に震災について説明する時間にあてられた。
菅は秋の退任まで5回ほど内奏し、いずれも震災が話題になった。
陛下は菅に「その都度、熱心に聞かれる」(菅)ので、メルトダウンや、
溶けた核燃料が原子炉の圧力容器の底を突き抜けるメルトスルーの可能性についても話したという。

■原発を見たい
両陛下は那須御用邸の風呂を避難者に開放し、豚肉やソーセージ、卵など御料牧場の生産物を避難所へ届けるよう手配した。
両陛下のお見舞いは東京、埼玉、千葉、茨城、宮城、岩手と続いた。いよいよ福島県だ。
もっとも時間をかけて準備したのが福島だった。訪問までに十数人の原発や放射能関連の専門家らの説明を受け、猛烈な勉強を始めていた。
4月20日、東京大学地震研究所の地震火山情報センター長の佐竹健治は、侍従長の川島裕からこんな話を聞いた。

「天皇陛下が、原発を見たいとおっしゃっている」
川島が無理だと答えると、陛下は「自衛隊の飛行機で上空から見るならいいだろう、それでもだめなのか」。
この日、東京電力は福島第一原発の燃料棒の一部溶融を認めた。
22日には20キロ圏が警戒区域に設定され、住民の立ち入りが禁じられた。そんな時期だ。
1986年のチェルノブイリ原発事故。被害を受けた国から訪問客を迎えたときは、事故の影響や後遺症などについて熱心に話を聞いた。
89年にベルリンの壁が崩れて東西冷戦が終わったあと、陛下がこう言ったのを元侍従長の渡邉允は覚えている。
「これでチェルノブイリみたいなことは起こらなくなるだろう。
情報の流れがよくなり、何が起こったかわからないうちに大変なことになってしまうようなことは」

■狭心症の悪化と手術
狭心症を抱えていた天皇陛下は翌12年2月18日に冠動脈バイパス手術を受けた。
震災前の11年1月の「様子を見る」との判断が、震災を経た翌年には「手術を受けるべきだ」という判断へと変わった。
記者は、被災地訪問の負担も一因ではと考えた。取材した羽毛田信吾宮内庁長官は、
「心底思いやって、悲しみ、苦しみをともにする。心に重いものを負いながらの訪問であり、
心のストレスは大きかったと思います」と明かした。
さらに、たびたび天皇陛下に「お疲れではありませんか。すこしペースを落としては」と進言したが、
いつも「いや大丈夫だ」という答えだった、とも打ち明けた。
3月4日に退院し、5月12?13日には仙台の仮設住宅を訪れた。
5月16日にはエリザベス英女王の即位60年行事のための訪英を控えていた。
過密日程を心配した奥山恵美子仙台市長は、延期を提案したが、
宮内庁からは「被災地に行かずに海外に行くことはないと陛下はお考えです」と返事が返ってきた。

■ひざをつく
『祈りの旅』では両陛下が被災者の前でひざをついて語りかける姿について、
象徴天皇制を研究する河西秀哉神戸女学院大学准教授らへの取材で検証する。
皇太子明仁さまが1959年10月、昭和天皇の名代として伊勢湾台風の被災地を訪れた際は、座る被災者に立ったまま話しかけた。
一方、結婚後間もない62年に九州の児童施設を訪れた際、皇太子妃美智子さまは、
児童施設で子どもが横たわるベッドの横でひざをつき、子どもに語りかけた。
結婚後27年の86年。伊豆大島三原山噴火で東京都心に集団避難中の島民を慰問した際、ご
夫妻でひざをつき、被災者と同じ目の高さで話した。91年の雲仙普賢岳での姿勢も同様だ。河西が推測する。

「皇太子は最初は人々との接し方に距離感があったが、美智子妃の姿を間近で見て、次第にその意識を変化させていったのでは」

国民の側の意識も変化した。93年の北海道南西沖地震で津波などで被災した奥尻島を訪問した際は、
避難所でひざをつく天皇陛下の姿が報道されると、奥尻町役場に批判の電話が殺到した。
しかし町職員によると、2年後の95年の阪神・淡路大震災の際は、神戸市役所にそうした苦情はなかったという。

■追悼
北野編集委員は、本書の完成を見ずして亡くなった人たちを悼む。
そのひとりは、2017年8月、66歳で亡くなった衆議院議員の長島忠美。
04年の新潟県中越地震発生当時、2千人余りの全村避難を決断した新潟県山古志村(当時)の村長だった。
これまで表に出すことがなかった被災地を訪問した両陛下とのやりとりを、北野編集委員の取材に初めて答えた。

被災地で陸海空の自衛隊全体を束ねる統合任務部隊指揮官だった君塚栄治。
自衛隊員も被災したり、遺体捜索の精神的負担に苦しんだと明かした。
11年3月16日に陛下が自衛隊、警察、消防、海上保安庁の順に列挙し「その労を深くねぎらいたく思います」と語ったビデオメッセージに、
「自衛隊が頼りにされている」と感激した、と振り返っている。君塚は15年12月、63歳で急逝した。
「両陛下が人とふれ合い、言葉を交わした足跡は、本人が生きているときに聞いておかなければ記録に残らない。
そんな当たり前のことに気づかされた」。北野編集委員はそう締めくくった。


【未収録秘話/被災地と皇居を結ぶハマギク 両陛下との「5年後の約束」】

未収録の秘話がある。有名なハマギクのエピソードの後日談を多田晃子記者が取材していた。
岩手県大槌町の海辺に立つ「三陸花ホテルはまぎく」。両陛下とのきずなであり、ホテルのシンボルとなったハマギク。
天皇陛下の退位が決まったことを受け、このホテルに両陛下の歌を刻んだ歌碑を建設しようと準備が進む。
きっかけは皇后さまの一言だった。

同ホテルの前身「浪板観光ホテル」は東日本大震災で被災。社長だった山崎龍太郎さん(当時64)らが亡くなった。
この年の10月、皇后さまの誕生日にあたって公開された両陛下の写真には、
山崎さんが生前に種を贈ったハマギクの花が写っていた。「両陛下からの激励のメッセージでは」。
ホテルはハマギクを復興の象徴に掲げ、「三陸花ホテルはまぎく」として再建を果たした。
2016年9月、両陛下が岩手県大槌町への訪問で、このホテルに宿泊した。1997年10月に続く2回目の訪問だった。
海岸のハマギクは東日本大震災で半減し、砂浜は地盤沈下していた。
そばで仕えた侍従は、その光景を見た両陛下の様子について、こう明かした。

「言葉もなく、悲しそうな表情でご覧になっていた」
社長の千代川茂さんは両陛下に、5年後にはまた震災前の砂浜に戻ると思っていること、そして「お越し下さい」と伝えた。
翌日の帰り際、皇后さまが千代川さんに声をかけた。

「5年後ですね」
5年後の2021年は、震災から10年の節目だ。
退位された後も私的なご旅行でいらっしゃることがあるかもしれない。
千代川さんは、万が一の5年後に備えて、お二人の歌碑を建設しようと考えた。
両陛下が訪れた日を、「平成」の元号で記録する予定だ。


【未収録秘話/200人の中からひとりの姿を見つけた天皇陛下】

中田絢子記者は、こんなエピソードを紹介する。
1991年の雲仙・普賢岳噴火災害発生当時、長崎県島原市長を務めていた鐘ケ江管一さん(87)は、
「両陛下には、8回ほど拝謁していますが、1回1回のお話をよく覚えてくださっていた」と明かす。

鐘ケ江さんは噴火災害から約1カ月後に両陛下が現地を見舞った際、現地を案内した。
復興状況の説明を求められ、上京して御所に上がったこともあった。
驚いたのは、鐘ケ江さんが市長を退任後の93年、皇居での清掃ボランティア「勤労奉仕団」に参加した時のことだ。
約200人とともに両陛下と対面した場で、両陛下は鐘ケ江さんを見つけ、歩み寄った。

「ご本をありがとう」
実はこの対面に先立ち、鐘ケ江さんは著書「普賢、鳴りやまず―ヒゲ市長の防災実記763日」を、宮内庁を通じ、両陛下に贈っていた。
皇后さまは、同伴した長女の紀宮さま(黒田清子さん)に「この方がヒゲの市長さんで、本を出されたのよ」と紹介してくれた。
鐘ケ江さんが直近で両陛下と会ったのは2014年秋の諫早国体の時だ。
長崎県県議ら約20人がホテル玄関で出迎えに並ぶなか、両陛下は鐘ケ江さんの前でパッと足を止めた。
皇后さまは「ご病気でおられると聞いておりましたが、お元気そうでよかったですね」と健康を気遣った。
数年前にくも膜下出血で倒れたことを、把握していた。
復興状況の説明にあがった時はいつも微に入り細に入り、住民の生活状況についての質問があった。
鐘ケ江さんには、両陛下が長い間、ずっと気遣ってくれていることが伝わってくる。(肩書は当時、文中一部敬称略)

(構成/本誌・永井貴子)

※週刊朝日オンライン限定記事

https:// dot.asahi.com/wa/2018022200020.html

  • 最終更新:2018-02-24 22:04:26

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