「雅子妃問題」究極の論点

WiLL2008年9月号
「雅子妃問題」究極の論点
渡部昇一(上智大学名誉教授)

本誌がきっかけになって、皇太子殿下および雅子妃殿下に対する様々な議論が起こっています。
その中の一つに『文藝春秋』8月号の「皇太子、雅子妃両殿下への手紙」も位置付けられますが、
日本の「皇室」の本質に触れることを避けた議論だという感想を持ちました。
「手紙」を書いておられるのは、保阪正康氏、友納尚子氏、斎藤環氏、茂木健一郎氏、猪瀬直樹氏、福田和也氏の6名ですが、
どの方も皇室の歴史、皇統の重要性を視野に入れることを避けておられるようです。
そして書かれている「手紙」の大半は、雅子妃殿下の「ご病気」についての議論であって、
皇室論ではない。普通の家では病人の弁護に立つのは当然であり、人道的でもありますが、
公の場で皇太子殿下が、国民より妃殿下のほうを向いているという印象を与えておられるということへの考察から逃げているのではないか。 
その中で唯一、有意義だったのは、保阪正康氏が引用している小泉信三氏の覚え書きでした。
ただし、保坂氏は現在に小泉信三氏のような人がいないということを嘆いているだけで、これでは残念ながら竜頭蛇尾だと言えます。

終戦時の昭和天皇
小泉信三氏の覚え書きは、昭和24年、小泉氏が東宮御教育常時参与に就任し、
皇太子(今上陛下)への講義を始めるにあたって書き残したものです。
この覚え書きの中でいちばん重要なのは、昭和天皇の御君徳について触れている点です。
近代において敗戦国はどの国でも、皇帝や王の存在が廃されてしまいました。
普仏戦争においてはナポレオン三世、第一次世界大戦ではロシア、ドイツ、オーストリアの三大帝国の皇帝がみな、消えました。
ロシア皇帝は惨殺されています。第二次世界大戦でも、イタリアやハンガリーの王などが廃されています。
にもかかわらず、日本の場合は皇室が揺るぎなく存在したのはなぜか。これを小泉信三氏は考え、
「大半は陛下(昭和天皇)のご君徳によるものである」と言っておられます。
そして陛下の御君徳がどのようなものであったかについては、
「終戦時は今日とちがひ、陛下が直接民衆にお接しになります機会は極めてすくなかつたにも拘わらず、
国民は誰れいふことなく陛下が平和を愛好し給ふこと、学問芸術を御尊重になりますこと、
天皇としての義務に忠なること、人に対する思ひ遣りの深くお出になりますことを
存じあげて居り、この事が敗戦といふ日本の最大不幸に際しての混乱動揺を最小限に止めさせた所以であると存じます。」
と述べ、次に天皇になられる皇太子殿下(今上陛下)に、まず君主としての徳を積まれるよう申されています。
近代の敗戦国の中で日本が特殊だったのは敗戦時の天皇の地位です。
あれだけの大戦争で負けたとなれば皇帝や国王が残るわけがありません。
終戦直後、大都市のほとんどが焼き払われ、300万人もの人が死に、親を失い、子を失い、兄弟を失った人がたくさんいました。 
その状況の中を、戦争中、大元帥ですから元首であられた昭和天皇が、ボディーガードも全くなくオープンカーに乗られ、全国を廻られた。
今のように宿泊施設が整っていないので、県庁の会議室や汽車の中でお休みになられたという話も聞いています。
そして、どこへいっても多くの日本人から歓迎を受けたのです。
この日本の状況を世界がどう見ていたか、その時の私は知るよしもありませんでしたが、
数十年後になって、当時、イギリスの新聞が報じていた内容を見る機会がありました。
その記事は、「日本はいま、すべてが混乱と変化の中にあるが、その中で唯一変わらないものが一つある。
それが天皇である」という主旨で報じていました。
まさにその通りだと私は思ったものです。
他の大国は、ロシアでもドイツでもイタリアでもフランスでも、戦争に負ければ君主は廃されます。
なぜ日本の天皇が存続し得たのかというと、小泉信三氏の言われた御君徳が昭和天皇にあられたからでしょう。
ついでながらつけ加えておけば、戦後しばらくの間、日本人は本当に皇室の行方を心配していました。
共産党は皇室廃止論です。後に最高裁長官になり文化勲章を受けた横田喜三郎東大法学部教授も、
「皇室と民主主義が合わない」という主旨の著述をしていたのです。
そんな時に『文藝春秋』は「天皇陛下 大いに笑う」という座談会を載せました。
この昭和天皇のお姿を知って、当時の日本人はどんなに明るい気分になったことか。
これ以後、『文藝春秋』は毎月10万部ずつ発行部数を増やし、国民雑誌になりました。
『文藝春秋』は昭和天皇の御君徳のおかげで、今日の大築くことになったと言えましょう。

日本の君主の御君徳
日本の君主の御君徳について考えるとき、私は老子のこの言葉を思い出します。

老子「道経」十七章
 太上 下知有之
 其次 親而譽之
    其次畏之
    其次侮之
    信不足焉
    有不信焉

つまり、「最上の君主は、そういう方が存在するということだけを民が知っている。
その次によい君主は、民に親しまれ、誉められる。その次によい君主は、民に畏れられる。
その次は民に侮られる君主である。君主に信が足りないと、民は君主を信じない」という意味です。
元来、日本では、天皇、皇室が存在しているということを庶民は知っていますが、
具体的にどういう方かは知らないで尊敬してきました。昭和天皇が昭和の危機の時代に、
どういうお考えでどういうことをなさったのか、当時の普通の人々は知りようがありません。
老子の言う最上の君主にあたると言えます。
戦後になって、東京裁判を通じて「木戸幸一日記」などが出てきたので、庶民も昭和天皇の一端を知ることができるようになっただけです。
しかし、ご巡幸時の日本人の反応を考えると、「存在を知っていた」という関係の中でも、庶民は昭和天皇を正しく理解していたように思います。
次の「親しまれ、誉められる」君主は、新憲法の下で今上陛下と皇后陛下が実行なさっていることに近いのではないか、と思います。
その次の「畏れられる」君主についてですが、古代はともかく、平安朝以後の天皇は畏れられるという存在ではありませんでした。
庶民から畏れられたのは、天皇の代理であった武家政治の頭領、「将軍」と呼ばれる人たちが畏れられる統治者でした。
次の「侮られる」君主は、畏れられていた将軍たちの末期に当たります。
鎌倉幕府の北条氏では北条高時、室町幕府では足利義昭が侮られました。
侮られて、各幕府は滅びることになったのです。

明治天皇のパラドクス
天皇の御君徳は、なんだかわからないけど偉い、尊敬できる方だという形がいちばんいいのではないか、と私は思います。
例えば、西行法師が伊勢神宮に行った時に、「何事のおはしますをば知らねども
かたじけなきに涙こぼるる」と言ったように、なんとなく天皇とは尊い方であるというのがよい形です。
明治天皇は若くして天皇の地位につかれましたが、御君徳がおありだったようです。
明治天皇が前田家を訪ねられた時にお迎えに出た前田家当主の奥方が、「あの方は人ではなかった。
神様だった。お顔のあたりから眩しいものが出ていて、とても顔が上げられなかった」という主旨の話をしていたと、
孫娘に当たる方が書いていらっしゃいます。
明治天皇は元勲と親しくなさいましたが、侵すべからざる御君徳がおありだったようで、
山縣有朋のように明治天皇を担いで権力を持ったような人でも、天皇についてはわずかの話をする時にも居ずまいを正し、同席者にも姿勢を正させました。
この明治天皇の御君徳はなんであったかと考えると、パラドクスであったということが言えると思います。
明治天皇は、白人をのぞいて唯一、近代国家を作られるという大革新をした方です。
例えば、表に出られる時は常に軍服を召されるとか、あるいは、必ずしもご自身の舌には合わないにせよ、
宮中の公式晩餐は西洋式にするということをなさいました。
明治維新が成功したのは、大久保利通や伊藤博文が言う近代国家は富国強兵、
つまり西洋化しなければならないということを、明治天皇が認められ、自ら率先して執り行ったからです。
衣服や食事といういちばん保守的なものを天皇が変えられれば、どんな人間にもお考えが伝わります。
しかし当時は、皇族や公家をはじめ頑固な保守派が存在したことは明白です。
それでも皆がこの明治天皇の革新を納得したのはなぜか。
明治天皇は革新の一方で、皇室でも忘れられていたような非常に古い儀式などを復活させました。
そして厳粛にそれを執り行われたのです。大正天皇の御生母であられる柳原二位の局が明治天皇の次のようなエピソードを書き残されています。
明治天皇は牛乳が非常にお好きだったようですが、皇室の儀式があるときは前の晩あたりからそれを全く口にされなかった、と。
一方でこのような復古を行われたので、これには復古主義者も何も言えません。
その方が進めたものだからこそ、明治の革新は成功したのです。
そして日本は西欧を除けば、古い歴史を持ちながらも近代化に成功した唯一の国になりました。
これを尊敬して真似しようと、イランのパレビー国王は近代化を試みましたが、
保守派のホメイニ氏に敗れています。ですから、革新にして復古というパラドクスは非常に難しいことだと言えます。
いな、日本の天皇だけができたことでした。

普通の人でない方の連続
明治天皇は世界一たくさん、和歌をつくられた方であると言えます。ご自身の才もありますが、
和歌は、神話の時代からの伝統ある文学形式だということもあります。
初代神武天皇以来、歴代の天皇は必ず和歌をつくられましたし、祝詞をあげられました。
これらはすべて大和言葉です。明治天皇もあれだけたくさんの和歌をつくられても、
私が知る限り、大和言葉でないものは満州の地名が一つ入っていたかどうか、というやむを得ない場合だけです。
天皇の詠まれる和歌は、普通の人では詠めないようなものが多くあります。
天皇は普通の人とは異なるので、当然と言えば当然ですが、
例を挙げると当時の日本人の小学生が教えられた次のようなものです。

 明治天皇御製
 あさみどり 澄みわたりたる大空の 廣きをおのが心ともがな

「一面に青く澄みし大空の、あの廣々としたる様を、自分の心としたいものだ」という意味ですが、このようなものは普通の人では詠めません。
また、戦前『キング』という雑誌で佐佐木信綱氏が書かれていたと記憶していますが、
明治天皇は和歌の天才であるけれどもその中で最も天皇らしい歌を挙げるとすれば次のものだというくだりがありました。

 明治天皇御製
 たかどのの 窓てふ窓をあけさせて 四方の桜のさかりをぞみる

「御所の高いところから、窓という窓全部を開け放たせ、あちらでもこちらでも
今を盛りと咲き満ちている桜の花をながめた」という意味です。これも普通の人では詠めません。
また有名な御製としては、日米開戦の前の御前会議で昭和天皇が引用なされた、

 四方の海 みな同胞(はらから)と思う世に など浪風の立ち騒ぐらむ

 これも天皇でなければつくれない歌でしょう。

大正天皇は晩年、ご病気だったことから軽んじるようなことが囁かれたりもしましたが、非常に立派な方だったようです。
昭和天皇はマッカーサー元帥との面会で、ご自身のことはまるでおっしゃらず、
日本の復興を望み、国民をご心配なさった。マッカーサーは昭和天皇は命乞いをすると思っていたために驚いて感激したという話はあまりにも有名です。
また、東京裁判で戦犯とされた人たちについても、
「戦勝国からすれば戦犯かもしれないが私から見れば最も忠実な股肱である」ということをはっきりと述べていらっしゃいます。
昭和天皇もまた、普通の人ではありませんでした。ですから、天皇は普通の人でない方の
連続の歴史なのです。これが神話の時代から今日まで、男系で続いてきた世界唯一の王朝の特徴です。
ですから、『文藝春秋』8月号に代表されるように天皇や皇室を庶民感情だけで語るのは、
むしろ皇室を庶民レベルに引き下ろしていることになりましょう。

突出して特殊な「家」
本誌7月号で、日下公人氏との対談中に私が述べた会田雄次先生の祖父の話があります。
会津武士だった会田雄次先生の祖父が、ある日、書見をしていた時に泥棒が入った。
そこで床の間にあった刀をとり、泥棒を斬り殺した。刀の血をぬぐい、鞘に収めた後、何事もなかったようにまた書見を続けた。
そして、奥さんに-会田先生の祖母に-死体を片づけるよう指示し、奥さんも当たり前のごとく死体を片づけた。
これは武家では普通のことだったのだと思います。商人の家であれば、大騒ぎになったでしょう。
私の恩師である佐藤順太先生も武家の方でしたが、家に錠をかけたことはないとおっしゃっていました。
泥棒が入ってきたらいつでも刀をとって斬り殺そうと、床の間に刀を置いてあったといいます。
昭和になっても武士の家系ではそういう意識を持っていた方がいました。
武士の意識と町人の意識は全く違います。日露戦争の真っ最中に、与謝野晶子が
「君死にたまふことなかれ」という歌をつくりましたが、これは弟に向かって旅順なんかで
死ぬことはないというようないわば反戦の歌です。しかし、明治政府は何ら気にとめませんでした。
当時の政府高官は武士の出身者ですから、「町人の女が何か言っている」というようなもので
全く問題にしなかったのです。やがて与謝野晶子のような物言いが問題になっていくのは、
階級の境が溶けてきたからだと言えます。しかし、三代くらい続いた軍人の家などは敗戦間近まで、
家族も何も捨てて討ち死にするという覚悟ができていたと思います。
武士が、「ちょっと家内が病気で引きこもってまして戦争に行けません」などと言ったら、これはもう武士ではありません。
農家について私はよく知っていますが、日本の農家は、日本の農家に生まれなければ絶対にできないものだと言えます。
ようやく雪が溶ける頃から水に入って苗代をとり、田植えをし、最も暑い時期に夏草をとり、稲刈りをする。
1年の3分の2を、ずっと腰を曲げて働くのです。
これは農家に生まれ、子供の頃から手伝わされていればできますが、そうでなければ辛くてできません。
最近では機械化が進んでいるので、脱サラで農家を始めることもできるかもしれませんが、
少なくとも私が大学生になる頃までは絶対に無理だったと言えます。
こういった「家」の違いというものが厳然としてある中で突出して特殊な家が皇室です。
その皇室の伝統は少なくとも昭和天皇までは、昔の通り守られてきました。
それが敗戦によって揺らいできたので、小泉信三氏はそれを憂えて御君徳について挙げて
おられるのですが、具体的にそれが何なのかは述べておられません。
そして小泉信三氏は、イギリスのジョージ五世を参考にされたようです。
確かに参考にはなると思いますが、その前に核としての日本の伝統を伴った生き方がなければ、
日本の天皇の御君徳にはならないのです。
皇太子ご夫妻の違和感
私はかつて、曽我侍従に頼まれて皇太子殿下にご進講をしたことがあります。
今上陛下と皇后陛下も傍らで聞いておられました。
その時、日本の和歌は膨大にあるけれども原則として漢語は入っていない、
源氏物語にも漢語はほとんど入っていないということを申し上げました。
そして日本の言語文化、言霊というものは、シナ文化とは全然違うのだ、という主旨
(『渡部昇一の「日本語のこころ」』ワック刊)のことを述べたときの、
まだ幼い皇太子殿下の目の輝きは素晴らしいものでした。
私は日本語の伝統のすばらしさを聞かれた喜びに満ちた目の輝きと受け取ったものです。
その皇太子殿下と雅子妃殿下について様々な議論が起こっているのは、
日本人が漠然と皇室の伝統について抱いているイメージとどこか違和感があるからだと思います。
例えば、皇太子殿下の「雅子さんをお守りする」とのご発言は、普通の人としては立派です。
しかし、「誰から守るのか」と考えたとき、「国民から守るのか」という疑問が出るかもしれません。
ですから、お守りするのはご立派ですが、ご発言が公になるのは、日本の君主の御君徳の
発露としてはいかがなものかと思う人が多くいたようです。雅子妃殿下のキャリアの話にしても、
普通の日本人には、東宮妃や皇后の地位は、庶民のキャリアと並べられるものではないと感じられるでしょう。
いわゆる「人格否定発言」も同じで、これは私が感じるだけではなく、
今上陛下も秋篠宮殿下も同じような違和感を表明されておられるようです。
また、「家庭の幸せ」を手本としてか、皇太子殿下が愛子さまをおんぶしておられる姿が報じられていましたが。
これも庶民としては美しいかもしれませんが、天皇になられる方がなさってはならないと感じる人も少なくありません。
天皇とは日本の神様(一神教のゴッドではない)になられる方ですから。
その方が赤ん坊を背負っていたのではあまりにも様にならないと、
私の知っている赤坂の芸者は顔色を変えて憤慨していたことを覚えています。
私はこの芸者の感覚のほうが正しいと思っています。
皇太子殿下が「普通の人ではない」ということを自覚なさったお言葉やご行為ならば、
ご夫妻に対する違和感は沸き起こってこないのです。
『WiLL』の読者たちの反応は、みなこの違和感を示しているようです。

家産相続法と系統相続法
また、『文藝春秋』8月号で、皇太子殿下がオックスフォード大学にご留学されたことについて、感傷的な表現をされている方がいました。
留学なさったことはよいことだと思いますが、あまり影響を受けるのはよろしくありません。
イギリス王室、つまりは欧米の王室と日本の天皇家は、相続法が基本から違うからです。
欧米の王室、あるいは貴族の相続法は、家産相続法です。国家としての利益になれば、王はどこから連れてきてもよいということです。
1688年にいわゆる「名誉革命」が起こりました。名誉革命とは簡単に言えば、次のような話です。
ジェームズ二世という王が勝手気ままなので、議会が反乱を起こし、こんな王ならいらないとなった。
しかし、王がいないのは困るので、王の娘メアリーの結婚相手であるオラニエ公ウィリアムを
迎え入れようとした。しかし、やはりそれではまずいと、ウィリアム&メアリーと並べて
王位継承することになった。そのうち、メアリーのほうが先に亡くなってしまった。
メアリーが男子を産まなかったため、メアリーの妹を呼び戻してみたりもした。
しかし結局、系図を辿りに辿ると血が繋がっているという理由から、
ドイツがまだ小さな王国の集まりであった当時、ハノーファー王国の王であったジョージ一世を連れてきて即位させた。
このジョージ一世という人は妻を死ぬまで牢獄に入れ、自分は愛人を引き連れてイギリスに入りました。
元来、イギリスには来たくなかったと言われています。英語を話さず国内政治には関心を持たなかったため議院内閣制が発展した。
宮廷楽長だったヘンデルをイギリスに連れてきたことだけが唯一の功績だった、と言う人もいます。
イギリスには以上のような歴史がありますが、これはイギリスという国をなんとか存続させたいという国民の利益のための手段です。
これが家産相続法ですが、日本でも徳川時代に大名家を継ぐ者がいないと、
持参金を持ってきた者を養子に迎えたりして、血の繋がりなどは一切関係なくなってしまいました。
大名家の家来にとっては、殿様がいるという事実だけが自分たちの生活に必要でした。殿様は誰でもよかったのです。
大阪の大商人でも、家督を継ぐものがいなければ番頭に娘をめあわせる、
適当な娘がいなければ夫婦養子にするなどの手段をとって、家の財産を守りました。 
対して、日本の皇室や公家は系統相続法です。これは男系を続けるという意味です。
簡単に今風に言えば、Y遺伝子を辿れば悠仁親王は真っ直ぐに神武天皇まで
つながっているということです。こういった理由で日本の皇室だけが今まで続いたのです。
ですから日本の皇室は、現在に適応することも必要なときがあり、また、事実適応し続けて
今日に至っているのですが、同時に過去との連続を重んじなければ成り立たない王朝なのです。

三万石と八百万石
小泉政権で皇室典範問題が持ち上がった時、愛子さまを天皇にすると決める提案がありました。
当時の皇室典範に関する有識者会議の結論によれば、長子であること、
男女を問わないということでしたから、愛子さまを天皇にすることを決めたようなものでした。
それでも多くの人々は、愛子さまは可愛いからいいじゃないかというような反応でした。
少なくとも戦後の日本人の多くは皇室について、その程度の認識しかなかったのです。
しかし冷静に考えれば、愛子さまが天皇になるのはいつ頃なのかということが重要です。
今上陛下の後に皇太子殿下の時代があり、その後になるのですから、
4、50年後の話になります。当然、愛子さん(原文ママ)は、4、50歳にはなっています。
その時、愛子さまが独身であれば、子供はいません。また、天皇になられる前に愛子さまに
配偶者を迎えているとすれば、そのお婿さんになられた方はどなたかということになります。
結論から言えば、どちらも日本の伝統を守ることはできません。
ただ、中川八洋氏のような皇室尊敬家は、一つの可能性として旧皇族の中で愛子さまの
結婚相手として相応しい年齢の方がいないわけではないから、その方と結婚して頂いて、
その方が天皇になり、愛子さまが皇后になる選択肢があると言っていました。
悠仁親王殿下がお生まれになったので、この問題は一応、消えましたが、
また女系天皇論が復活しないためにもう一度、言っておきます。
世界で唯一、男系で続いてきた、すなわち系統相続法である日本の皇室伝統があったからこそ、
戦国時代の皇室のように普通の大名や地主や商人よりも貧しいような無力な時代にあっても、
皇室に対しての国民の尊敬は失われなかったのです。
戦国武将のいち早く、皇室に手を差し伸べようとしました。織田信長は皇室復興に非常に
力を入れ、武田信玄はやりたかったができませんでした。上杉謙信は皇室復興はできませんでしたが、
わずかの人数を連れて宮廷にあがりました。豊臣秀吉や徳川家は盛大に皇室を盛り立てる努力をしています。
徳川家は公称八百万石と言っていましたが、対して皇室は三万石足らずでした。
八百万石対三万石では圧倒的な力の差がありますが、しかし皇室が尊敬されないわけではありませんでした。
それは、徳川は家産相続の頭であり、皇室は系統相続の頭だからです。
徳川は権威づけのためには、自らを「源」と称しました。源と言った途端に、源の先祖は清和源氏ということになります。
清和源氏は清和天皇の皇子から出たのですから、源は天皇家の傍系になるわけです。本家を非常に尊敬しなくてはならない。
ですから勅使がくると、緊張のあまり松の廊下で刀を抜く浅野内匠頭が出るくらいです。
三万石からきた勅使になぜピリピリするかは、以上のような理由からです。
系統相続は持っている財産や権力にかかわらず、権威があるのです。
日本の天皇の御君徳とは、その系統相続から出てくる自ずからなる自信だと思います。
皇室論の究極のポイントは、この部分にあります。

皇室を論ずるならば
ハンチントンが世界を文明圏で分けましたが、どのように分けようとも一つの文明には、
多数の言語、多数の民族、多数の文化が入ります。例えば、シナ文明の中には、満州や韓国も入ります。
民族が違ってもシナ文明圏です。
ところが朝鮮海峡を渡った日本をそこに組み入れることができるか、といえば、絶対に組み入れることができません。
シナ大陸のちょっと先にある小さな島だといっても、組み入れることができないのはなぜか。
組み入れることができない動かし難い芯があるからで、それが神社と一体になった皇室です。
ですから我々が皇室の安泰と繁栄を願うのは、日本文明が皇室とともにあるからであり、
もし皇室と神社に万一のことがあるならば、日本全体がシナ文明の一部に組み込まれることになります。
日本語はシナ語とは全く異なりますが、それは韓国語も同じ話です。
後は文化の指標となる宗教の仏教や、文字の漢字、儒教のようなものにしても、
シナから来たと言われればシナ文明圏になります。
日本がシナ文明圏に組み入れられれば、シナ人は、あたかも今の韓国人に臨むがごとく、
チベット人に臨むがごとく、モンゴル人に臨むがごとく、
さらに沖縄の人たちに臨んでいるがごとく、傲然として日本人に臨むでしょう。
それをわれわれ日本人は欲するのかどうか、という問題が、皇室論には横たわっているのです。
この視点がなく、皇室を論ずるのは、皇室を庶民の家庭と同列に置くことになることを忘れてはならないでしょう。


  • 最終更新:2017-02-19 11:09:31

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