「美智子皇后」「雅子妃」「紀子妃」知られざる嫁姑戦争 20年

週刊新潮2013年5月2・9日ゴールデンウィーク特大号
「美智子皇后」「雅子妃」「紀子妃」知られざる嫁姑戦争 20年
(※内容的には雅子妃の異常性)

「納采の儀では、自ら御養蚕所で育てた繭から採った絹糸で織り上げた絹織物を雅子さまには5巻、紀子さまには3巻贈られました。
また結婚の儀に際し、ご自身は袴だけ新調して十二単は良子皇后のものを受け継いでお召しになったところ、
お二方にはそれぞれ、祝福を込めて十二単を新調して差し上げています」(渡辺みどり氏)
さらに、雅子妃には、
「急な環境の変化でお寂しい思いをなさらないようにと、実家とご自由に連絡できるよう手配なさったのです。
実際に、ご成婚当初から、母親の優美子さんがホンダの自家用車で赤坂御所の門を入っていく姿が、度々見られていました」

こうしたご関係にさざなみが立ち始めたのは94年、秋篠宮家に第2子の佳子さまが誕生した頃であった。
「紀子さまのご懐妊が発表された際は、『東宮を差し置いてお二人目とは』といった批判が宮中から出ましたが、
女児とあって風向きは一転。雅子さまには一層、“早く男子を”との声が向けられていったのです」(皇室ウオッチャー)
が、声援は徐々にプレッシャーとなり、翌95年には陛下が雅子妃を慮って、
〈国民はみな、あなたたちの子を期待していますよ〉とのお言葉を掛けられたところ、
雅子妃が、
〈私の周囲には、そんなことを言う友人は一人もおりません〉
そう言い放たれる場面があったことは、すでに報じられている。場は静まり返り、
後にこの一件をお聞き及びになった皇后さまもまた、言葉を失ったという。
「その頃、ご夫妻は周囲から不妊治療を勧められても『私たちで何とかします』と拒み続け、
ご進言を試みた御用掛の産婦人科医を遠ざけてしまわれたこともありました。
御所では、両陛下が妃殿下のご懐妊の兆しを心待ちにされていた。
毎月、東宮側の医師が内々に呼ばれ、妃殿下のご体調についてご報告申し上げていたのです。
“変化”が見られないと分かるや、『そうでしたか…』と肩を落とされる皇后さまのお姿がありました」(宮内庁OB職員)

陛下のご学友でジャーナリストの橋本明氏が言う。
「秋篠宮家の2人のお子様は、両陛下にとってはとにかく可愛いお孫さんで、
ご一家が御所に行かれると、皇后さまはお孫さんを楽しそうに遊ばせていらっしゃる。
そこに皇太子ご夫妻が合流されると、雰囲気がガラリと変わるのです。
弟宮が東宮に遠慮なさるからですが、そうしたお気遣いが、雅子妃にはかえって重圧となってしまいました」
90年のご成婚以来、紀子妃は一貫して両陛下、わけても皇后さまと良好な関係を築き上げてこられた。

宮内庁関係者の話。
「秋篠宮妃殿下は、殿下のご学友として学生時代から宮中に出入りされており、
当時皇太子だった陛下ともテニスをご一緒するなどし、『キコちゃん』と呼ばれて可愛がられていました」
このため、外交官から全く異質の世界へと転身された雅子妃に比べ、スムーズに宮中に溶け込まれたのだという。
(中略)
対して、皇太子ご夫妻である。かつて昭和天皇は皇太子時代の陛下と美智子妃を毎週水曜日に御所に招き、
夕食を共にしながらコミュニケーションを図ってこられた。
こうした「定例ご参内」は雅子妃に引き継がれ、数年は続いたものの、徐々に回数は減り、有名無実となっていく。
そんな中、99年12月には、ベルギー外遊から帰国されたばかりの雅子妃に「ご懐妊の兆候」とのスクープが持ち上がった。
が、その後の検査では、稽留流産と判明―。

そしてここから、先々のご病気へと繋がる「感情」が芽生えてしまったと指摘するのは、皇室ジャーナリストの久能靖氏である。
「ご懐妊という情報を、ごく初期の段階で知り得るのは医師や看護師、側近など限られた人々です。
それが漏れたことで、雅子さまには周囲への拭いがたい不信感が生じました。流産なさったこともあり、
その後、宮中で孤立されていくきっかけとなってしまった大きな『事件』であったと思います」
打ちひしがれていた雅子妃に翌年、立て続けにある「トラブル」が降りかかる。
このことが先々皇后さま、ひいては御所との間に、深い溝を生み出していったというのだ。
(中略)

「2000年6月16日、皇太后さまが崩御されましたが、その際のことです」
そう振り返るのは、さる宮内庁の古参職員だ。7月25日には豊島岡墓地で、
一般の本葬にあたる「斂葬の儀」が営まれたのだが、雅子妃はこれをご欠席。
「前日には東宮大夫の会見で、妃殿下は『暑さが続き、夏バテのような状態』で体調を崩され
『お体を大切にしていただく見地からお取り止めになった』との発表がありましたが、案の定、懸念や批判の声が相次ぎました」(同)

これに先立ち、皇族方や宮内庁職員らが24時間交代でお棺の側に詰める「殯宮祗候(ひんきゅうしこう)」が、40日間にわたって続けられていた。
実はこの時期に、今に至るまでトラウマとなっている「出来事」が、雅子妃に起きていたというのだ。
「殯宮祗候と並行し、斂葬の儀当日までは連日、さまざまな儀式が続きました。
その際、妃殿下は現場で行事におけるきまりごとについて、皇后陛下からごく簡単なアドバイスを受けたのですが…」(同)
それは、お召し物のベールの長さなど、これまで営々と続けられてきた、しきたりに関するものであったという。が、
妃殿下は、この皇后陛下とのやりとりを『叱責』と受け止めてしまわれたのです
大勢の皇族方や職員の前で自分だけが咎められたのだと解釈なさり、ショックを受けてしまいました」(同)
こうした“アクシデント”もあり、斂葬の儀だけでなく、前日に吹上大宮御所で営まれた儀式なども、雅子妃は欠席された

実際には「叱責」の事実などなかったのだが、
「後に妃殿下はこの一件を、主治医である大野裕医師のカウンセリングを受けた際、お話しになっています。
そして、この時の体験が大きな心の傷となり、御所への参内もままならないという趣旨のご説明をされている。
御所の側にもそうした“思い込み”は漏れ伝わっており、念のため儀式に携わった人たちに当日の様子を確かめたところ、
そうした場面は一切なかったことが分かったといいます」(同)
一方的な思い込みがあらぬ誤解を生み、ご自身の中でも大きなわだかまりとして燻っているというのだ。
さらに、
「この問題も含め、妃殿下の症状いついての情報は“プライバシー”を盾に大野医師ら東宮職が一切クローズしている。
御所と情報を共有して事実確認をしようともせず、妃殿下の言い分だけを鵜呑みにして抱え込んだことで、
この件は、04年5月の殿下による『人格否定発言』での“雅子のキャリアや人格を否定するような動き”の一つにカウントされてしまいました。

当の皇后陛下も、誤解を持たれているのはご存知なのですが、お立場上、あれこれと仰れないでいるのです」(同)
「両陛下が皇太子ご夫妻へ極めて強い不信感をお持ちであるのが露わになったのです」(皇室ウォッチャー)
(中略)

今回のオランダ訪問しかり。大事な連絡の返事が遅いのはもやは東宮の常となった。女性宮家のときもだんまり。
「かねてより皇后さまは,雅子妃殿下のお振舞いを制御できないどころか
引きずり込まれてイニシアチブを握られている皇太子さまのお姿をお嘆きだった」(宮内庁関係者)

「皇后陛下は皇太子妃殿下の振舞いをことさら憂えておられます。
妃殿下に将来、自分のような皇后としての働きが務まるとは考えておられず、
また国民から見た皇室像が変容していくことにも大変な危惧を抱いておられます」(侍従職関係者)

  • 最終更新:2018-07-17 17:27:31

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