「天皇の稲作」と「皇后の養蚕」は、次代にどう引き継がれていくのか

現代ビジネス 2018.07.01
「天皇の稲作」と「皇后の養蚕」は、次代にどう引き継がれていくのか
畑中 章宏
田植えをする天皇、蚕を育てる皇后
天皇・皇后両陛下は、忙しいご公務の合間を縫って日本の伝統産業に取り組まれてきた。
天皇陛下が田植えをし、皇后陛下が蚕に餌をやるシーンは、メディアを通じて報道され、
国民に皇室への親しみをおぼえさせるとともに、農業や養蚕業に対する関心を持続させてきたのである。
5月25日、天皇陛下は、皇居内の生物学研究所脇にある水田で田植えをされた。
開襟シャツにズボン、長靴姿で水田に入り、種もみから育てたうるち米の「ニホンマサリ」ともち米の「マンゲツモチ」の苗を1株ずつ植えられた。
秋には陛下の手で収穫も行われ、稲の一部は伊勢神宮に奉納されるほか、新嘗祭などの宮中祭祀に用いられる。
天皇陛下が田植えをした4日前の5月21日には、皇居内にある紅葉山御養蚕所で、
皇后陛下が、蚕に餌の桑の葉を与える「給桑(きゅうそう)」に取り組まれた。
木造2階建ての紅葉山御養蚕所は1914年に建てられ、現在も当時とほぼ同じ方法で養蚕が行われている。
皇后陛下はこの日、蚕に桑を与えた後、蚕が繭を作る器になる藁蔟(わらまぶし)を手で編まれた。
皇居では現在、3種類の蚕を12万~15万頭飼育し、皇后陛下は毎年5~6月ごろ、蚕の餌やりや繭の収穫などを行う。
繭からできた生糸は、正倉院宝物の修復などに使われる。

宮中養蚕は殖産興業のシンボルだった
天皇の稲作と皇后の養蚕の歴史を振り返ると、皇后が皇居で蚕を育て始めたことの方が、半世紀以上古い。
しかし、いずれも近代になってからのことだ。
宮中養蚕は1871年(明治4年)に、明治天皇の皇后美子 (昭憲皇太后)が要望し、「その道の知識経験のあるものに聞くように」と促して、
渋沢栄一が回答したことに始まるという。
明治政府の高官には下級武士出身者が多く、養蚕にかんする知識があるのは、
武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)生まれで当時大蔵大丞を務めていた渋沢栄一しかいなかったためだと考えられている。
宮中養蚕が始まると、大蔵省はこれを記事にした新聞を買い上げ、各府県に配布した。これも渋沢の発案だった可能性がある。
渋沢栄一は、官営「富岡製糸場」の設立にも尽力した。
明治政府は、重要な輸出品目として生糸の品質向上と需要の拡大のため、リヨン近郊出身の技術者ポール・ブリュナーを招き、
1872年群馬県の富岡に官営の「富岡製糸場」を設けた。
この製糸場で、蒸気機関を動力に用い、25人分の繰糸機を12連備えるという最先端技術を誇った。
渋沢は富岡製糸場の設立に向けた計画や調整を行ない、設置主任としてかかわったのであった。
美子皇后が始めた宮中養蚕は、英照皇太后(孝明天皇妃)、貞明皇后(大正天皇妃)、
香淳皇后(昭和天皇妃)、そして美智子皇后へと引き継がれてきた。
1879年、英照皇太后は青山御所内に「御養蚕所」を新設して、養蚕を再開。
群馬県島村の養蚕技術者田島弥平の設計で、木造2階建て、1階は飼育室、2階は蚕が繭をつくるための上蔟(じょうぞく)室だった。
隣には小さな蚕室も併設され、華族の子女が蚕の飼育を行なった。
その後も青山御所での養蚕は行なわれ、英照皇太后が崩御する前年、1896年まで続けられた。
1908年、皇太子妃節子(のちの貞明皇后)により、青山御所内御養蚕所での蚕の飼育が復活されることとなる。
節子は幼少のころから養蚕に関心があり、青山御所で、1912年までは皇太子妃として、1913年からは皇后として「御親蚕」を行なった。
1914年には、本多岩次郎設計の御養蚕所が、皇居内紅葉山に新設された。
木造2階建てで、伝統的な蚕室と近代的設備を備え、本格的に養蚕が行なわれるようになった。
貞明皇后は戦後の1947年「大日本蚕糸会」の総裁に就任。蚕糸関係施設の視察や、蚕糸関係者、養蚕農家を激励して各地をめぐった。
美智子皇后は、1988年に香淳皇后より養蚕を引き継いだのである。

昭和天皇が稲作を始めた“事情”
現在も、「皇后の養蚕」とともにつづけられている「天皇の稲作」は、皇后の養蚕より新しく、
1927年(昭和2年)に昭和天皇が、内大臣秘書官長や侍従次長兼皇后宮太夫などを務めた河井弥八の発案により始められたものだった。
河井はのちに、大日本報徳社社長を務め、サツマイモ栽培や砂防林の普及運動に力を尽くし、
「サツマイモ博士」とあだ名された官僚・政治家である。
河井は、1926年7月23日、内大臣府秘書官長に就任。官長としての最初の大きな仕事は、
同年12月25日に崩御した大正天皇の大喪と昭和天皇の皇位継承の儀式だった。
1927年3月3日、侍従次長兼皇后宮大夫になった河井は即位したばかりの昭和天皇に、皇居での稲作を提案した。
この提案を受け入れ、赤坂離宮内苑菖蒲池のほとりの水田で、昭和天皇はお田植えをされたのである。
河井は日記に「聖上陛下御親ら田植を遊ばさる。真に恐懼(きょうく)とも歓喜とも名状し難き思あり」と提案が実現した感動を記している。

天皇の稲作は、農業奨励や農民の苦労をしのぶために始められたといわれる。
しかし河井が、新天皇にも、皇后の養蚕のような日本産業を体現するシンボリックなふるまいが必要だ、と考えていたとしても不思議ではない。
じつは昭和初年頃には、米の生産高は明治10年代の2倍以上に増加したものの、幕末の3倍近くにまでなった人口増加のため、
日本は深刻な米不足に陥り、朝鮮や台湾からの米の移入で不足分をまかなっていたのである。
河井が発案した天皇の稲作が効果を上げたわけでもないだろうが、1930年は大豊作となる。
しかし、世界恐慌によって生糸の対米輸出が激減し、生糸価格が暴落。これを引き金にほかの農作物の価格も次々と崩落する。
大豊作だった米価も暴落し、日本の歴史上初めての「豊作飢饉」が起こる。
米と繭で成り立っていた日本の農村は、収入源を絶たれてしまったのだ。
翌1931年には一転して東北地方、北海道は冷害による大凶作にみまわれ、欠食児童や女子の身売りが横行する事態となった。

新しい産業に手を染めていただきたい
宮内庁によると、宮中養蚕は、2019年4月の天皇陛下の退位後は新皇后となる雅子さまが養蚕を継承されるという。
今月13日には皇后陛下が天皇陛下とともに皇太子ご一家を御養蚕所に案内された。
2019年は即位関連の儀式が相次ぐため、雅子妃による本格的な養蚕は2020年からになるとみられる。
一方、天皇の稲作は、今上陛下にとっては今年が最後のお田植えとなり、陛下の譲位後は新天皇となる皇太子が引き継がれる見込みである。
なお、天皇の稲作と皇后の養蚕は「ご公務」ではない。また、稲作によってできた米が新嘗祭に使われるものの「宮中祭祀」でもない。
宮内庁のホームページの「天皇皇后両陛下のご活動」によると、ふたつとも「伝統文化の継承」に位置づけられている。
しかし、ここまで見てきたように天皇の稲作と皇后の養蚕は、近代日本の殖産興業としての側面が強かった。
だとすれば次代の天皇皇后には、21世紀の日本を象徴する産業にも手を染めていただきたいものである。
これからの日本を支える産業のひとつは、なんと言っても情報通信産業だろう。
そこで思い浮かぶのは、天皇皇后がスマホを使いTwitterやFacebook、あるいはInstagramで日々の暮らしやご活動、思いやお姿を発信する未来だ。
日本の皇室とも関係が深い英国王室は、インターネットをさかんに活用している。
ロイヤル・ファミリーは、ソーシャルメディアに積極的に取り組み、さまざまな発信を行っている。
天皇皇后ご自身が、インターネットをとおして発信する思慮深いお言葉や慎みのあるお姿は、日本人はもちろん、世界中の人々に届くに違いない。
http:// gendai.ismedia.jp/articles/-/56263

  • 最終更新:2018-07-01 13:04:46

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